第3節 現実世界の全体性

第3章

前節で、心的状態は私の思いや言動を内省することによって見出される内在的原因であるということを考察しました。

ここでは、心的状態が内在的原因として働いているのは、本当に思いや言動だけだろうかということを見ていきます。

通常、心的状態には、これまで見てきた他の内省と同様、二つの誤解があります。

一つは、思いや言動から独立して心的状態なるものが存在するというもので、私秘的な心の中で「やる気がある」状態が生じ、そして実際に勉強に打ち込むという事態が引き起こされる、という構図です。しかしそう考えると、私秘的な心の中で生じた「やる気がある」状態がどのようにして現実世界の勉強を打ち込むという事態を引き起こすのか、その関係性が説明できないという二元論的難問に直面します。現実世界に存在しないものが一体どこに存在し、どのように現実世界に影響を与えるのか皆目見当がつかないのです。

したがってそうではなく、「やる気がある」状態は、勉強に打ち込むという事態そのものを内省することによって得られる別様の解釈として把握されなければなりません。つまり、現実世界の思いや言動そのものが、内省すれば私秘的な心的状態だということです。ただし、無像論で明らかなように、本来的に言えば、私が思いや言動そのものである時、心的状態は私には知ることのできない内在的原因であり、これを把握することは矛盾です。したがって、この顕在化された心的状態は架空の概念として扱われなければなりません。

そして、もう一つの誤解は、心的状態は主体としての私に生じるというものです。

勉強に打ち込んでいる最中というのは、厳密に言えば、私はその事態そのものになっているのであり、本来的には無自覚でなければなりません。そこには心的状態はもちろん、主体としての私も登場しません。しかし、自分の思いや言動に疑問を抱いたり、客観的であろうと欲する場合には、私たちはこれを内省し、心的状態を見出します。

通常、この心的状態は漠然と主体としての私に生じるものだと考えられています。つまり、今「私」にやる気が生じている、というわけです。しかし、心的状態が主体としての私に生じる必要があるでしょうか。そう考えてしまうのは、心的状態が矮小化・実体視されているからに過ぎないのであって、無像論で明らかなように、本来内省とは私に知られることのない無限定な内在的原因であったはずです。そうであれば、心的状態は何者かに生じる必要はありません。そして、心的状態が現実世界から独立しつつ、関与しているものであることを考えれば、この心的状態こそがすなわち主体としての私です。

そして、これらのことから、さらにもう一つの誤解が見出されます。

それは、ここまで心的状態を思いや言動に限定した内在的原因として見てきましたが、実はそうではなく、心的状態は思いや言動を中心とした現実世界全体の内在的原因として働いているということです。

像が私に立ち現れる視覚的世界全体の内在的原因なのであれば、当然、心的状態も私に立ち現れる現実世界全体の内在的原因なのです。内在的原因というのは、内省した途端に矮小化・実体視され、個人的なものとして把握されることから、思いや言動といった個人的なものだけを心的状態の対象にしてしまいたくなりますが、内省しなければ無限定なものなのですから、心的状態は現実世界全体に働いていると考えなければならないのです。もちろん現実世界の内在的原因と言っても、それはたとえば勉強がつまらないものとして立ち現れるといった心理的要素が大きいのですが、そのようなものが現実世界全体に働いているということです。そして、それは視覚的世界が私の目を中心として、その周辺が最も現実感をもって広がっているように、心的状態の影響も私の身体を中心として現実世界に広がっていると言えるでしょう。いずれにせよ、私と現実世界に明確な境界などなく、そして、現実世界のあらゆる事物には私の認識が働いており、どのような認識が働くかは私の心的状態次第なのですから、たとえば「やる気がある」状態は思いや言動だけでなく、先生の顔や机の上の教科書など、目の前の状況全ての内在的原因として働いており、さらに、その影響は現実世界全体にまで及んでいるのです。

これは事物だけでなく、私に立ち現れる他者についても同様です。

私に立ち現れる他者は、まずもって私の心的状態の登場しない現実世界そのものの中の存在であり、その言動は他の事物と同様、ただそのようなものとして受け取らなければなりません。しかし、事物とは異なり、他者においてはその言動だけでなく、当人の心的状態も考慮されるのが一般的でしょう。つまり、たとえば誰かが勉強はつまらないと言っているとすれば、その原因を当人の「やる気がない」状態に求めることができます。

しかし、これは無像論で明らかなように、私自身の心的状態を転用した認識単独の心的状態です。私が自らの思いや言動から見出したことのある心的状態であれば、当然他者にも似たような心的状態が存在するだろうと推測するわけです。しかしそうであれば、それは私が3D映像を見たことがなければ、その景色を他者に転用することができないように、自分に経験のない心的状態は他者に転用することができないということであり、結局のところ、他者の心的状態はどこまでも私自身の心的状態に過ぎません。そして、そのような心的状態が見出される他者の思いや言動も、認識しているのは他でもないこの私なのですから、これらを内省すればその原因は当人ではなく、私の心的状態に見出すことができます。

さらに言えば、そもそも他者の心的状態は現実世界に登場し得ない存在です。まずもって心的状態の登場しない現実世界そのものが存在し、これを内省すれば私の心的状態が見出され、さらにこれを転用したものが他者の心的状態ですが、他者の心的状態においては、これを還元する現実世界が存在しないのですから、本来的には架空の概念としてさえ措定することができないものです。もちろん私たちが他者を理解する上で、他者の心的状態を考慮しなければならないのは言うまでもありませんが、しかし、私の現実世界においての内在的原因は最終的に私の心的状態なのですから、私は私の心的状態しか制御することができないのであり、それは他者もまた然りです。にもかかわらず、もし矮小化・実体視された他者の心的状態を私の現実世界の中で実在として扱ってしまえば、それはむしろ他者の心的状態を軽視していることになるでしょう。

したがって、私の心的状態は現実世界全体の内在的原因として働いています。

何度も述べているように、本来、現実世界に心的状態は登場しません。私が望むのであれば、私は心的状態の登場しない現実世界の中で、訳もなく生じる「勉強が楽しい」とか、反対に「勉強がつまらない」といった思いや、それに伴う言動に身を任せていればいいのであり、そのような現実世界そのものの裡に無自覚に心的状態は働いています。しかし、その中で自分の思いや言動に疑問を抱いたり、客観的であろうと欲する場合には、私たちはこれを内省します。つまり、「勉強がつまらない」という思いを抱いたり、実際に怠けたりする自分から、「やる気がない」状態を見出します。しかし、この時私が思いや言動しか内省しないのであれば、当然この矮小化・実体視された心的状態は個人的なものとして把握されます。そして、もしそれが実在として扱われたならば、私には私秘的な「やる気がない」状態と、つまらない勉強が立ち現れている現実世界がそれぞれ独立して存在することになるでしょう。そうすると、目の前のつまらない勉強は、私の「やる気がない」状態とは無関係にそのようなものだと把握されてしまいます。

しかし、本来「やる気がない」状態は架空の概念であり、現実世界には登場し得ないものなのですから、思いや言動を中心とした、勉強がつまらない状況そのものを内省して初めて見出されるものだと解さなければならないのです。そして、それは思いや言動を中心とした目の前の状況全ての原因であり、別様の解釈なのですから、言わば「意味」のようなものであり、ここでは勉強観とでも呼ぶべきものだと言えます。私に「やる気がない」状態が見出されたならば、そこには私の勉強に対する姿勢や考え方が反映されていると考えなければなりません。そして、その勉強をさらに分析すれば、当然他の事物との関連性や対比が見出され、やがて様々な事物が連環をなしていることに気づくでしょう。したがって、最終的には現実世界全体とその中で為される思いや言動の全てが内省の対象であり、その現実世界全体の意味がすなわち私の世界観です。言い換えれば、私に実際の現実世界と個人的な世界観が存在するのではなく、私に立ち現れる現実世界全体が私の世界観そのものを表しているのです。

したがって、現実世界と心的状態は常に一致しているものとして考えなければなりません。

私たちは、勉強がつまらないという思いを抱いたり、実際に怠けたりする自分を内省して「やる気がない」状態を見出しますが、通常、この時の「勉強」は誰にとっても同じ客観的事物であり、異なるのはこれに対する個々人の思いや言動だけであるといった解釈が為されます。あるいは、「やる気がない」状態であれば、思いや言動だけでなく、客観的事物の見え方も否定的なものになると考えるかもしれません。しかし、この場合でも、あくまで私の否定的なフィルターを通すことによって客観的事物も印象が変わる、といった程度の解釈に留まるでしょう。これは事物と心が別個に存在するという二元論的発想であり、心的状態が矮小化・実体視されていることから、このような解釈が生まれます。

しかし実際には、他者との共有物としての視覚的世界と私の個人的な像があるわけではないように、客観的事物と私の個人的な心的状態が存在するわけではありません。今まさに目の前に立ち現れている現実世界全体を別様に解釈すれば、私の心的状態が見出されるのです。したがって、たとえば自分は「やる気がある」状態なのに勉強がつまらない、といった事態も考えられるように思われるかもしれませんが、そのような事態は起こり得ないと言わなければならないでしょう。なぜなら、勉強がつまらないというまさにその思いが、「やる気がない」状態そのものを意味していることになるからです。そして、それは思いや言動だけでなく、私を取り巻く状況全てが私の心的状態の意味だと考えなければならないのです。逆に言えば、もし私が自らの思いや言動だけを内省して心的状態を見出そうとすれば、私は私を取り巻く状況がなぜそのようなものであるかを理解できず、その原因を神に求めなければならなくなるでしょう。

したがってそうではなく、私は私を取り巻く状況全てから私の心的状態を見出さなければなりません。そして、そのようにして見出される心的状態は過去や未来も含めた、私の認識し得る限りの現実世界全体に対して整合性の取れたものでなければなりません。なぜなら、心的状態は現実世界全体の内在的原因だからです。反対に、もし心的状態が現実世界全体の内省として把握されないならば、現実世界と心的状態が一致しないことは、両者は必ずしも一致するものではないという結論に導くかもしれません。実際、私たちはほとんどそのようにして生きていると言えるでしょう。しかし、現実世界が心的状態と一致しないのであれば、それは心的状態の把握が誤っているのであって、現実世界が心的状態と無関係に立ち現れるのでも、誤っているのでもないのです。「やる気がある」状態の時に、やる気を削がれるようなことが起こるといったことはよくありますが、それはその状況が問題なのではなく、その「やる気がある」状態にその状況が含まれていないことが問題なのです。

さらに、心的状態には他の内省にはない特徴があります。

それは、視覚的世界においては、通常一つの対象は誰にとっても同じ色や形であるという観念が存在するのに対し、心的状態を内在的原因とする現実世界においては、誰にとっても同じ正しい姿というものは存在しないということです。

遠くの看板の文字がぼやけていれば、それは私の視力の問題であり、メガネを掛けたりすることによって皆と同じぼやけていない看板の文字を見ることができます。しかし、「やる気がない」状態から眺められたつまらない勉強においては、たとえそれを取り除いたとしても、誰にとっても正しい勉強の姿といったものが存在するわけではありません。もちろん世間一般の勉強観のようなものは存在するかもしれませんが、必ずしもそれが正しいわけではなく、本来的には個々人の勉強観によって立ち現れるそれぞれの勉強の姿があるだけです。したがって、もし勉強がつまらないと思ったとしても、その原因は必ずしも自分の「やる気がない」状態に求めなければならないわけではありません。反対に、勉強がつまらないことに原因があると思えば、勉強そのものをもっと楽しいものに変えたり、あるいは、また別のことに打ち込んでもいいわけです。もちろんこれは勉強だけの話ではありません。私たちは日々様々な状況において、様々な思いや言動を為しますが、その全てにおいて、現実世界と心的状態のどちらに原因を求めるかは私たちの自由に委ねられています。

そして重要なのは、その時、心的状態が思いや言動を中心とした現実世界全体の内省として捉えられているかということです。全ては連環をなしているのであり、私たちは常に自らの世界観が現実世界全体と一致することを目指さなければならないのです。

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