第3節 能動性について

第4章

ここまで、心的状態を主に受動的なものとして扱ってきました。しかし、そうすると私たちはただ状況に反応するだけの存在だということになってしまいますが、実際はもちろんそんなことはないでしょう。したがって、ここでは心的状態の能動性について考察したいと思います。

たとえば目の前のリンゴの赤色が気に入らず、これを黒色に変えたいと私が思ったとします。この時、目の前のリンゴは内省すれば私の像なのだから、この像を黒色に変えて実物のリンゴを黒色に変えればいい、と考えたりはしません。なぜなら自らの力で自分の像を変化させることなど私にはできないからです。したがって、リンゴを黒色に変えたいのであれば、私は現実的な方法を選ぶしかありません。つまり、実際に絵具でリンゴを黒く塗るといったことです。あるいは、個人的な変化で満足するのであれば、サングラスを掛けるといった方法も考えられます。もしくは、将来的には脳を操作することによって同じような現象を齎すことが可能になるかもしれません。いずれにせよ、これらの行為は絵具やサングラスや脳といった現実世界のものと像との受動的因果関係を利用しています。では、なぜそのような受動性に頼らなければならないのかと言えば、それは視覚的因果関係の場合、どのような波長の時にどのような脳の状態になり、その結果どのような色が私に立ち現れるかが予め決められているからであり、それが所与的な像の限界です。

では、心的状態においてはどうでしょうか。心的状態を変化させるためには、受動性に頼らざるを得ないのでしょうか。

まず、心的状態には像にはない特徴があります。それは心的状態が像に比べて明らかに曖昧で流動的だということです。そのため、私たちは必ずしも自分の心的状態を正しく把握できるわけではなく、正しく把握できなければ、そもそも心的状態を制御することなどできません。したがって、心的状態を変化させるためには、まずもって心的状態を正しく把握することが求められます。

では、心的状態を正しく把握するとはどういうことかと言うと、一つは、現実世界全体を内省するということです。

私たちは、矮小化・実体視された心的状態が個人的なものとして把握されるため、思いや言動だけを内省する傾向にあります。実際、思いや言動が心的状態の中心的役割を果たしていることは確かです。しかし、何度も述べている通り、心的状態は思いや言動だけでなく、現実世界全体の内省であり、目の前の状況全てを内省の対象にしなければなりません。なぜなら、さもなければ現実世界と心的状態が別個のものとして把握され、たとえ勉強をつまらないと思う原因を自分の「やる気がない」状態に見出しても、勉強そのものは私と対峙する形になってしまうからです。したがって、心的状態を正しく把握するためには、まずもって現実世界全体を内省しなければなりません。

そして、もう一つは、現実世界全体をありのまま受け入れるということです。

心的状態は思いや言動を中心とした現実世界全体の意味のようなものであり、両者は表裏一体です。したがって、思いや言動を含めた現実世界全体をありのままに受け入れることがすなわち心的状態を正しく把握することに繋がるのです。

私たちはありのままの現実世界を受け入れずに、善悪の観念を持ち出す傾向にあります。しかし、思いや言動を中心としたありのままの現実世界が心的状態そのものを表しているのですから、まずもってこれを受け入れなければなりません。つまらないという思いは「やる気がない」状態から半ば受動的に引き起こされるものであるにもかかわらず、それが単なる思いではなく、あたかもあってはならないことであるかのように否定されれば、いつまでたっても「やる気がない」状態を見出すことはできず、そしてそれはまた、当然私に立ち現れる現実世界全てにおいて当てはまります。

さて、では仮に心的状態を正しく把握したとすればどうなるかと言うと、私たちは自由を得られます。なぜなら、それまで現実世界の側にあると思っていた物事の原因が自分の側にあることが判明すれば、現実世界から解放されるからです。勉強がつまらない原因を自分の「やる気がない」状態に見出せば、少なくとも現実世界に不満を抱くことはなくなり、そうすると「やる気がない」状態を受け入れるか、あるいは「やる気がある」状態に変化させるかといった個人的な問題として扱うことができるのです。それは、遠くの看板の文字がぼやけていれば、本当に文字がぼやけているのではなく、自分の視力の問題だと捉えるのと同じことです。そして、その中でもし「やる気がある」状態に変化させようと思えば、私は何をするでしょうか。

一つは、現実世界と心的状態との因果関係を利用することが考えられるでしょう。つまり、「褒められれば、やる気が出る」とか「ドーパミンが増えると、やる気が出る」といった因果関係を用いて心的状態に働きかけるということです。しかし、これはメガネを掛けたり、視力を回復させたりするのと同じ受動的因果関係であり、そうすると、心的状態の原因は現実世界の側にあることになり、結果的に私は受動性の中で生きることになります。

では、心的状態においても像と同様、やはり受動性に頼る他ないのかと言えば、もちろんそんなことはないでしょう。なぜなら、すでに述べたように、心的状態においては、自らの思いや言動を変化させることによって、心的状態そのものを変化させることができるからです。私たちはある状況に置かれた時、その状況に反応する形で思いや言動を為してしまいますが、思いや言動を中心とした現実世界全体を一時中断させることによって、その反応とは異なる思いや言動を為すことができます。それによって、心的状態が思いや言動を引き起こすのではなく、思いや言動が心的状態を変化させることができるのです。

私たちは、明確な目標を持ち、何事も前向きに捉え、実際に勉強や仕事に打ち込んでいる人を「やる気がある」状態だと判断します。これは逆に言えば、そのような思いや言動を為せば、「やる気がある」状態を形成することができるということなのです。したがって、所与的な像においては、世界に対して受動的であらざるを得ませんが、心的状態においては、必ずしも現実世界に対して受動的であるわけではなく、思いや言動を変化させれば、自ら能動的に心的状態を変化させることができると言えます。

ただし、この時もし私が「私」を矮小化・実体視していたとすればどうなるでしょうか。

おそらく私は強大な現実世界の中のちっぽけな「私」として、目の前の状況に向けて思いや言動を為すでしょう。そうすると、当然それにより形成される心的状態は利己的なものになります。つまり、たとえば明確な目標を持ち、何事も前向きに捉え、実際に勉強や仕事に打ち込んでいたとしても、それが矮小化・実体視された利己的な「私」によるものであれば、当然私の「やる気がある」状態も利己的なものになるのです。さらに、矮小化・実体視された「私」はどんなに能動的になったとしても、現実世界の一部でしかないのですから、その思いや言動は現実世界全体で眺めれば、やはり物事に反応する受動的なものでしかありません。もちろん、私たちは内省によって矮小化・実体視することでしか心的状態を見出すことができません。しかし、それは現実世界全体が内省によって個人的なものとして把握されるという矛盾を孕んだ現象であり、内省をやめれば、再び現実世界全体に還元されなければならないものです。にもかかわらず、ここでは現実世界そのものとしてではなく、個人的な思いや言動を為しているのですから、それは現実世界全体として眺めれば、利己的で受動的なものだと言わざるを得ないのです。したがって、この心的状態は本来的な能動性とは言えません。

では、本来的な能動性とはどのようなものかと言えば、それは現実世界全体のための思いや言動を為すということです。なぜなら、本来的な心的状態は思いや言動を中心とした現実世界全体の内在的原因だからです。内省によって見出される矮小化・実体視された「やる気」を出そうと思えば、つまり、これを現実世界そのものに還元しようと思えば、無像論と同様、超越的転換によって、私は「私」を忘れて現実世界全体に働きかけなければなりません。「明確な目標を持ち、何事も前向きに捉え、実際に勉強や仕事に打ち込む」といった思いや言動は現実世界全体に向けたものでなければならないのです。逆に言えば、もし私が本来現実世界に登場し得ない「私」に対して無自覚であれば、当然のように私は現実世界そのものとして思いや言動を為すでしょう。それによって初めて現実世界全体の内省としての心的状態が機能します。

もちろん、どのような思いや言動が現実世界全体のためになるのかといったことに簡単に答えが見出せるわけではありません。しかし、少なくとも自らの思いや言動を中心とした現実世界の内省はそれを考えるためのものであり、個人的な心的状態を満たすためのものではありません。いずれにせよ、無像論において、私が視覚的世界を視覚的世界として捉える際、そこに自らの像を意識することがないのと同様、心的状態を現実世界の内在的原因として正しく機能させようと思えば、私は心的状態のことを忘れて、現実世界全体のための思いや言動を為すという逆説的な行為が必要なのです。そして、それはたとえ客観的世界においては些細な思いや言動であったとしても、私の心的状態においては大きな変化であり、そのことが現実世界全体に大きな影響を与えます。そうして、初めて私は現実世界全体に対して本来的な能動性を獲得するのです。

とは言え、もちろんこれらのことが何か義務のようなものとして課せられているわけではありません。私たちには自由が与えられています。そして、利己的であることが必ずしも悪いことではなく、視覚的世界同様、自分を中心として世界が広がっていることは明らかです。さらに、何が現実世界全体のためになるのかという問題に答えはなく、「私」や心的状態に完全に無自覚であることも不可能に近いでしょう。したがって、全ては混沌としており、心的状態を制御することは容易ではなく、私たちは日々このことに苦悩しています。

しかし、そうして私たちが心的状態を制御できずに、混沌とした中で思いや言動を為している最中にも、現実世界全体と心的状態は一致し続けています。私の像がぼやけているにもかかわらず、実際の看板の文字がぼやけていると捉えることは可能ですが、それでも実際のぼやけていない看板は私に気づかれるまで待ち続けているでしょう。同じように、私が自らの心的状態を見誤り、現実世界の側に原因を求め、利己的な思いや言動を為す自由は与えられていますが、その向こうでは実際の現実世界があるべき姿で私を待ち続けているのです。そうであれば、私たちは心的状態を正しく制御し、能動的になることを目指さざるを得ないのではないでしょうか。

心的状態は像とは異なり、曖昧であり、日々流動的に変化しますが、私たちはこれを日々の内省によって把握し、現実世界全体のための思いや言動とは何かについて考えを巡らせなければならないのです。そして、もちろん思いや言動を中心とした現実世界は自発的であり、答えがないのですから、視覚的世界におけるリンゴが誰にとっても同じように立ち現れるのとは違い、その立ち現れ方は様々であり、したがって、共通の答えではなく、個々人にとっての答えが目指されるべきです。

その中で、個々人の思いや言動が個々人の心的状態を形成し、その心的状態が個々人の現実世界全体に反映され、さらにあらゆる状況に晒されるということだけは誰とっても共通の真理でしょう。そして、私たちが自分の心的状態を正しく把握し、現実世界全体と一致させることで初めて現実世界を理解することができるという意味において、真実とは正直さのことです。私たちが正直になりさえすれば、現実世界に疑問を抱くことはなくなり、現実世界に疑問を抱くことがなくなれば、自らの心的状態が理解され、自らの心的状態が理解されれば、自ずと現実世界と一致するのです。

以上のことから明らかなように、受動性とは矮小化・実体視された「私」を現実世界から独立した存在として捉え、心的状態を個人的なものとした結果、現実世界の状況に反応する形で思いや言動を為すことです。そして、能動性とは心的状態を現実世界全体の内在的原因として捉え、どのような状況においても「私」を忘れて現実世界全体のための思いや言動を為すことです。それによって、初めて本来的な意味において心的状態を制御し、現実世界を思い通りにすることが可能になります。

とは言え、心的状態は矮小化・実体視することでしか把握し得ず、必然的に個人的なものとして捉えられるのであり、心的状態を制御することも、現実世界を思い通りにすることも不可能に近いと言わざるを得ません。その中で、自らの思いや言動によって形成された心的状態は現実世界に反映され、その現実世界の様々な状況に晒され、再び思いや言動を為すという営みを繰り返します。そして、私がどんなにこれらを不正直に把握し続けたとしても、その向こうでは現実世界と心的状態は一致し続けているのです。

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