第4節 現実世界の不確定性

第4章

最後に、心的状態が現実世界全体の内在的原因であることによって、理論上、現実世界に起こり得ることについて考察したいと思います。

たとえば、私の目や脳に何らかの不具合が生じ、赤いリンゴが青く見えるようになったとします。この時、私に働いているのは、目や脳の不具合という原因によって私の像が変化するという受動的因果関係です。では、もし私の目や脳の不具合ではなく、私の意思によって赤いリンゴの像を青く変化させることができるとしたらどうなるでしょうか。やはり、目の前のリンゴは青くなるでしょう。しかし、それだけではないはずです。この時、もし科学的因果関係を成立させようと思えば、私の像を変化させたことを原因として、今度は逆に、私の目や脳に何らかの不具合を生じさせるか、あるいは、光の反射を変化させるために、リンゴそのものを変化させるといった事態が生じなければならないでしょう。

もちろん、実際には像は所与的であり、私たちが自らの意思で自らの像を変化させることはできないのですから、このような事態が生じることはありません。しかし、これが心的状態であればどうでしょうか。心的状態においては、受動的因果関係が働くだけでなく、心的状態から引き起こされる思いや言動を一時中断することによって、自由に思いや言動を為し、その結果、能動的に心的状態を変化させることができるのです。そうであれば、現実世界が私の心的状態に影響を与えるだけでなく、私の心的状態を原因として、現実世界に変化を齎すことも可能なはずです。

ただし、もちろんそのためには現実世界に不確定要素があると仮定しなければなりません。しかし、現実世界に不確定要素がなく、物理的法則のみによって、この先宇宙に何が起こるかが全て決まっていると考えることのほうが、不確定要素があると考えるよりもむしろ不自然であり、現実世界に不確定要素が存在しても何ら不思議ではありません。何より、現実世界の内在的原因である像や心的状態が、本来私たちの与り知らないものであることを考えれば、現実世界に物理的法則以外の力が働く可能性を私たちが否定することはできないでしょう。

では、心的状態が現実世界に変化を齎すことが可能であれば、どのようなことが起こると考えられるでしょうか。

一つは、身体や脳を直接的に変化させるということです。これはそれほど不思議なことではないでしょう。私たちは現実世界に反応する形で引き起こされる思いや言動に抗い、それまでとは異なる思いや言動を為すことが可能です。この時、まずもって現実世界に抗うのは身体や脳ではありません。現実世界の一部である身体や脳が、何の根拠もなく現実世界全体に抗って自ら変化すると考えるのは明らかに不自然です。したがってそうではなく、まずもって現実世界に抗うのは「私」です。「私」が自らの思いや言動に疑問を抱いたり、客観的であろうと欲する場合に、これらを一時中断し、内省することによって初めて思いや言動を変化させることができるのです。そして、「私」が原因となって思いや言動を為し、心的状態が変化するのであれば、私の身体や脳が変化する原因は物理的法則だけではなく、当然「私」でもあり得ると考えることができるでしょう。

では、私の身体や脳ではなく、それ以外の現実世界についてはどうでしょうか。単に私の行為によって現実世界に変化を齎すということではなく、私の心的状態が直接的に現実世界に何らかの影響を与えることはあるでしょうか。

もちろんここには、視覚的世界においてもそうですが、他者との兼ね合いが存在しますが、やはりこれも可能だと考えることができるでしょう。なぜなら、心的状態は思いや言動だけでなく、現実世界全体の内在的原因だからです。

もちろん現実世界の中で最も自分の心的状態の影響を受けるのは私の身体です。しかし、視覚的世界が私を中心としてどこまでも広がっているが、その内在的原因が私の像と認識であるのと同じように、現実世界も私の身体との明確な境界はないのですから、私を中心としてどこまでも広がっており、その現実世界全体が私の心的状態の影響を受けていると考えて然るべきです。そして、それは単に「やる気がある」状態であれば、現実世界が輝いて見えるといった心理的要素だけではなく、実際に現実世界に変化を齎すということです。なぜなら、心的状態は通常個人的なものとして捉えられますが、それは他者との共有物である現実世界を内省することによって生じる矮小化・実体視に過ぎないからです。

心的状態は現実世界に意味を与えるフィルターではなく、現実世界そのものの意味であり、言い換えれば、現実世界そのものから見出される意味がすなわち私の心的状態です。そして、その現実世界の意味としての心的状態を形成するのは私の思いや言動なのですから、つまりは、私の思いや言動が現実世界を形成するということなのです。

したがって極論的に言えば、私がどのような思いや言動を為すかによって、立ち現れる現実世界が変化するということが言えます。つまり、私に赤いリンゴの像が生じれば赤いリンゴが立ち現れ、青いリンゴの像が生じれば青いリンゴが立ち現れるように、私の思いや言動が「やる気がある」状態を形成すれば、そのような現実世界が齎され、「やる気がない」状態を形成すれば、そのような現実世界が齎されるといったことが起こり得るということです。

もちろんだからと言って、矮小化・実体視された心的状態を安易に思い浮かべて現実世界を劇的に変化させることができるわけではありません。それは単なる自己欺瞞であって、何度も述べているように、本来的な心的状態は当人の意図とは無関係に、様々な状況での思いや言動が現実世界全体に対して示す意味のようなものであり、それが現実世界に影響を与えます。逆に言えば、私に起こる出来事は私の心的状態が作り出すものであり、それが今現在の私の心的状態だということです。

しかし、もし私が現実世界と自分の心的状態との間に、このような因果関係が存在すると考えなかったならば、私に起こる出来事は全て偶然の産物と見做され、自分にとって良い出来事も悪い出来事も、なぜそのようなことが起こるのか理解できないでしょう。矮小化・実体視された「私」にとって、現実世界は私と対峙し、私を翻弄する強大な外的要因でしかないからです。したがって、私は私に起こる出来事に反応する形で思いや言動を為し、その思いや言動が引き起こす出来事に再び反応するという受動性の中で生きていくことになるでしょう。

とは言え、もちろん私たちが完全に受動的であるということはあり得ません。私たちはそのような受動性の中で、日々内省し、現実世界に働きかけ、現実世界からの反応を受け取り、再び内省するという営みを繰り返しています。そして、幸運にも自分の心的状態に気づき、自分に立ち現れる現実世界に自分の心的状態が反映されていることを自覚できれば、現実世界から少しだけ自由になり、現実世界に反応するのをやめ、新たな思いや言動を為そうとするでしょう。そして、幸運にも現実世界と自分との因果関係を理解できれば、自分が現実世界に対して受動的であるばかりではなく、能動的に働きかけることができると知り、現実世界全体のための思いや言動を為すようになるでしょう。

そして、さらに極論的に言えば、そうして仮に自分の心的状態を完全に把握し、自らの思いや言動によって自分の望んだ通りの心的状態を形成することができるとすれば、現実世界は私にとって必然となるでしょう。つまり、私に起こる出来事は全て私が作り出すものであり、量子レベルで起こる出来事を予測することさえ可能であるかもしれません。

視覚的世界において、私たちは自分の像が生み出す景色を無条件に受け入れます。空が青いことや雪が白いことに抗おうと思う人はいません。反対に、現実世界においては、それが自分の心的状態の生み出したものだと思わず、自分に起こる出来事をあるがままに受け入れようとはしません。しかし、それは空の青さや雪の白さを拒むようなものです。空の青さや雪の白さは、私が望むと望まざるとにかかわらず、不条理にそのような色ですが、私たちはこれをあるがままに受け入れます。そうであれば、どんなに不条理な現実世界であっても、まずはこれを受け入れるのが道理です。それが私たちにとっての宿命であり、真実への近道なのです。

以上で、全ての考察を終えました。

普段、私たちは全てが把握可能だと考える傾向にありますが、本来的に言えば、内省は把握し得ないものの把握であり、なおかつ内省しない時には無限定なものであるにもかかわらず、内省した途端に矮小化・実体視され、私秘的なものとして把握されるという、二元論では収まらない不可解な代物なのではないか、というのが私の主張です。

特に、「私」や「心」といったものが一体どのようなものなのかということは、私たちが最も知りたいことの一つですが、本来的にはこれらは現実世界のどこにも存在しないと考えなければなりません。しかし、逆に言えば、「私」や「心」は私たちが把握しようとするまでもなく、常にすでに存在しているものであり、だからこそ私たちはこれを意識してしまいます。

そして、この考察自体がその把握し得ないものの把握を試みようとする最も愚かな客観視ではありますが、ミイラ取りがミイラにならないよう気をつけながら書いたつもりです。また、ここでは「心」の大まかな輪郭を描くことを試みましたが、これが読んでくださった方の「心」の描写の一助となれば幸いです。

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