第2節 客観に至る病

第4章

前節で述べたように、もし純粋に現実世界そのものとしての私というものが存在するならば、私は目の前の状況に対して無自覚に反応するだけでしょう。遊んでいる時は楽しく、勉強の時間になるとつまらなくなる。この時、楽しくなったり、つまらなくなったりする自分を自覚することはなく、自らが受動的であることすら気づきません。私はただ現実世界そのものとして、状況に反応する形で思いや言動を為すのであり、全ては機械的であり、偶然の産物に過ぎません。

しかし、ひと度内省すれば、私は目の前の状況から独立して存在する「私」に気づきます。そして、楽しくなれば今自分は楽しいのだと自覚し、つまらなくなれば自分はつまらないのだと自覚します。そこでは、「私」は現実世界から独立し、自発性が生まれていますが、やはり目の前の状況に反応する受動的な存在であることに変わりはありません。しかし、それが自発的であるというだけの理由で、私は自らが主体性を持って生きていることを自負するでしょう。さらに、その思いや言動は「私」によって生み出されたものだと考えられているのですから、私にとってそれはいつも正しいものとして把握されます。

ただ、いくら自発的であるとは言え、目の前の状況にただ反応する形で思いや言動を為すのであれば、それは様々な状況に一喜一憂するだけの存在であり、現実世界は思い通りにいきません。そこで、私たちはまず現実世界に直接働きかけて状況を変化させようとするでしょう。つまり、たとえば勉強が楽しくなるように工夫したり、勉強しなくても済むような状況を作り出したりするといった具合です。しかし、それだけで現実世界を思い通りにすることは困難です。なぜなら、現実世界には私と同じように現実世界を思い通りにしようとする数多の他者が存在するからです。

その中で、私たちは自分の思いや言動に疑問を抱いたり、客観的であろうと欲する場合には、現実世界を一時中断し、自分の思いや言動を内省します。つまり、たとえば勉強がつまらないのであれば、それは勉強のせいではなく、私の「やる気がない」状態に原因があるのではないかと思い至ります。これは、視覚的世界において看板の文字がぼやけていた場合に、自らの像に原因があると思うのと同じことです。

私たちは基本的に現実世界を現実世界として受け止めますが、そこに何か問題があった場合には、それが現実世界の問題なのか自分の心的状態の問題なのかと自問するわけです。そして、心的状態に問題があると判断すれば、これを変化させようと考えるでしょう。ただし、視覚的世界が他者との共有物であるのに対し、現実世界は各人各様であるため、像とは違い、心的状態に正解はありません。したがって、現実世界と心的状態のどちらに原因を求めるかは自由ですが、いずれにせよ、そうして私たちは現実世界とは別に、私の「心」が存在することを自覚します。

では、自分の「心」を自覚した後、私たちは何をするかと言えば、像と同様、それを認識単独のものとして存在させます。つまり、私たちは「心」の内在的原因の一つである認識を用いて、今まさにここにある「心」だけでなく、それ以外の「心」をも把握することができるようになります。

したがって、私たちは自分の中の様々な「心」はもちろん、それを他者に転用することによって、他者の「心」をも理解することが可能になります。そして、それは「心」の一般化にも繋がり、「やる気」という概念は私独自のものではなく、誰にでも存在するものとして把握されます。逆に言えば、私たちは社会から「やる気」という概念を習得し、それを内省によって自分の「心」に見出すことによって「やる気」の意味を理解すると言えるかもしれません。そして、それはもちろん「やる気」だけでなく、「心」にまつわる様々な概念も同様であり、それらは私たちの間で日常的に取り交わされます。

さらに、認識単独の「心」は像と同様、現実世界との間に因果関係が成立することが見出されます。つまり、目の前にリンゴが置かれれば、私にリンゴが見えるように、「褒められれば、やる気が出る」といった因果関係として把握されます。まず「褒められる」という外的要因があり、次いで私の「やる気」が生まれるというわけです。これは受動的因果関係です。私たちは「心」を自覚することによって、同じくそれまで無自覚であった、現実世界に対する受動性をも同時に自覚することになるのです。

そうすると、必然的に私たちが求めるものは、現実世界から何かしらの利益を得るということになるでしょう。なぜなら、矮小化・実体視された「私」を自覚すれば、「現実世界から利益を得られれば、私は幸福になる」という因果関係が成立することが容易に見て取れるからです。したがって、現実世界から独立した「私」は常に現実世界から利益を得るための思いや言動を為します。そして、そのような人々が集まれば、「私」の利益を追求することが当然の権利となり、その中で合法的に競争することが全体の利益に繋がるという思想のもと、そのような社会が形成されます。

あるいは、私たちは「心」の科学的説明として、「褒められれば、ドーパミンが増え、その結果やる気が出る」といった因果関係を用います。これは先ほどの現実世界と心的状態との因果関係の間に科学的物質を差し込んだだけで、因果関係自体に何ら変化はありませんが、科学は他者との共有物であり、より客観的に把握することができるため、私たちはますます詳細で正確な因果関係を手に入れることが可能になりました。そして、「褒める教育をする」とか「ドーパミンを増やす食べ物を摂取する」といった方法を用いることで「やる気」を制御しようと試みます。つまり、私たちは現実世界に対する受動性を自覚することによって、これを分析し、利用することを覚えたのです。

では、これらのことが一体何を意味しているかと言えば、それは私たちがずっと客観性を追い求めているということです。

客観とはすなわち内省です。私たちは物事の内在的原因である認識を内省し、分析することによって、今まさに目の前にある物事だけでなく、あらゆるものを普遍的に把握する可能性を得ました。そして、それは物事に留まらず、私たち自身の内省にまで及び、両者の間で因果関係が成立することを把握するに至りました。中でも、「心」は私たちにとって最大の関心事であり、自分たちの「心」がどのようなものであり、現実世界とどのような関係性にあるのかについて常に思いを巡らせます。そして、それは多くの人々によって、様々な言葉を駆使し、あるいは言葉以外の表現を用いて雄弁に語られ、私たちはますます「心」についての理解を深めています。さらに、私たちはこの認識単独の「心」を他者に重ね合わせ、それが自分と同等の価値のあるものだと知り、ついには地球上に存在する全ての人々の「心」の一つ一つが尊いものであることを理解し、全ての人々が幸せになることを願うようになるかもしれません。

しかし、どんなに客観的に眺めたとしても、私たちが真に「心」に辿り着くことはできないでしょう。なぜなら、現実世界の事物とは違い、客観的に眺められた「心」は内省であり、どんなにこれを分析したとしても、架空の概念であることに変わりはないからです。

もちろん「心」を客観的に眺めることが大切であることは言うまでもありませんが、何度も述べているように、内省によって見出される私秘的な「心」は矮小化・実体視されたものに過ぎず、ぬいぐるみや冷蔵庫の中にでも存在させることができるような代物であり、本来の「心」とは別物です。

本来の「心」は今まさに自分が思いや言動を為している最中の無自覚な内在的原因のことであり、私たちが認識できるものではないのです。にもかかわらず、もし私たちが認識可能な「心」を実在として扱えば、その本来の「心」は置き去りにされ、「心」という概念だけが独り歩きしてしまうでしょう。

つまり、いくら他者の美しい言動に触れてそこに美しい心を見出し、醜い言動に触れてそこに醜い、あるいは苦悩を抱えた心を見出し、誰かの苦しみやささやかな幸せに触れてそこに共感し、さらにそれらの「心」が日々内省され、間違いだと気づけば修正し、それでも許されないものは悪として糾弾したとしても、そのどこにも本来の「心」は登場しないのです。なぜなら、本来の「心」はこれらの物事を含めた現実世界全体そのものであり、その内在的原因である私の「心」だからです。

しかし、私たちは本来の自らの「心」を蔑ろにし、矮小化・実体視された「心」にばかり目を向け、あたかも「心」が物であるかのように取り交わします。そして、自らの「心」もまた矮小化・実体視し、これを見つめ、現実世界の中で取り扱おうとします。しかし、どんなに自らの「心」と向き合ったとしても、その最中の本来の「心」は思いや言動を中心とした現実世界全体の内在的原因として働いています。つまり、たとえば自らの「やる気がない」状態を自覚している最中にも、そこに「やる気がない」状態が内在的原因として働いていたり、誰かに向かって「否定からは何も生まれない」と言う時、そこには相手を否定する「心」が働いていたりするかもしれないのです。

いずれにせよ、客観的世界においては、「心」は全ての人々に同じ仕方で宿っており、私の「心」も数十億のうちの一つでしかありません。つまり、ちっぽけなものとして把握されます。

もちろん自分自身の「心」は自らを内省すれば確かに実感できるものであり、認識単独で存在させる他者の「心」とは異なります。しかし、それはまず個人的かつ独我論的なものとして把握されてしまいます。そうすると、現実世界は自分自身の「心」のためだけに存在するかのように捉えられ、当然その「心」は現実世界において何より大事なものとして考えられます。そして、「現実世界から利益を得られれば、私は幸福になる」という因果関係のもと、私は独我論的な「心」を満たそうとするでしょう。

しかし、「心」についての理解を深め、私が客観的になればなるほど、他者にも同等の「心」が存在することを知り、それぞれが数十億分の一の「心」を満たすことで世界全体の幸福が訪れるはずだと考えるようになるでしょう。そして、その多種多様な「心」を満たすことが目指され、新たな「心」が作り出され、複雑化し、その因果関係の中で生きていくことになります。しかし、もしそれが矮小化・実体視され、実在的に捉えられたものであったとすれば、「心」は物と同じように受動的な存在として扱われることになり、私たちはどこか虚しさを覚えてしまうのではないでしょうか。なぜなら、そこでは「心」は私に認識可能なちっぽけなものに過ぎないからです。かと言って、逆に私の「心」を独我論的に捉え、これを満たすために現実世界から利益を得ることを選択したとしても、私は自らの「心」がもはや数十億のうちの一つでしかないことに気づいており、満たされた「心」はちっぽけなものに過ぎないのですから、やはりどこか虚しさを覚えてしまうでしょう。つまり、「心」を客観的に眺め、これを実在として捉えれば捉えるほど、私たちは虚しさから抜け出せなくなってしまうのです。

何度も述べているように、私たちが頭の中で描く認識単独の「心」は実在ではありません。本来、「心」は現実世界に登場し得ない、私の思いや言動を中心とした現実世界全体の無自覚な内在的原因です。とは言え、それらを内省すれば、矮小化・実体視された個人的な「心」が見出されることもまた事実です。そして、像と同様、現実世界と「心」の区別は曖昧で、私たちは常に両者を同時に意識しており、私に現前する景色を現実世界と捉えるか、「心」の問題と捉えるかの明確な境界が存在するわけではありませんが、両者を極論的に分解すれば、このような区別が見出されます。

その中で、私たちが客観的であろうとすればするほど、認識できないはずの「心」はより実在として扱われてしまうことになります。もちろん、私たちは矮小化・実体視しなければ「心」を見出すことができないのであり、これを現実世界から独立したものとして把握するのは仕方のないことです。しかし、その中で認識可能な「心」を取り交わすことに終始し、今まさに為されている思いや言動を中心とした現実世界全体を蔑ろにすれば、どんなに客観的に「心」を分析したとしても、結局は受動性の中で生きていくことになってしまうのです。

では、私たちは受動性から脱却し、能動的に生きることはできないのでしょうか。しかし、科学的状況によって必然的に決定される所与的な視覚的世界とは違い、思いや言動は自発的です。そうであれば、これとは別の構図を描くことができるはずです。

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