第2節 感情について

第2章 認識論

では、感情についてはどうでしょうか。

たとえば花の美しさは花そのものに宿っているのでしょうか。それとも、花を見た私の心に芽生えるのでしょうか。

これも、私たちはその時々によって無造作に使い分けているように思われます。しかし、どちらがより直感的であるかを考えれば、答えは明らかでしょう。つまり、美しい花を目にした後で、それを私の感情だと表現することに違和感はありませんが、まずもって私に美しいという感情が芽生え、それを目の前の花に投影するという構図は明らかに不自然です。

したがって、花の美しさは花そのものに宿っていると考えるべきです。

しかし、不思議なことに、誰かがその花を美しいと思わないと言った途端に、美しさは心の問題になります。つまり、美しさの判断は、人によって異なる主観的なものだというわけです。実際、そのような状況が多々あるからこそ、感情は心に宿るものだと思われてしまいます。

しかし、その順序を考えれば、これは明らかに内省です。つまり、まずもって主体としての私の登場しない現実世界に美しい花そのものが立ち現れ、これを内省すると、そこに私の個人的な美しいという感情が見出されるということです。そして、感情が内省なのであれば、通常の私たちの解釈に少し修正を加えなければなりません。

目の前に美しい花がある。これが意味するのは、まず中立的な花が存在し、そこに私が美しいという感情を抱くということではなく、まずもって美しい花が存在し、これを内省すれば私の美しいという感情が見出されるということです。

言い換えれば、花が美しいのは、私がそう判断するからではなく、その花そのものに私の美しいという感情が内在的原因としてすでに働いているからだと見做さなければならないということです。

そうすると、通常の私たちの解釈と何が異なるかと言うと、それは私の美しいという感情は現実世界に存在する花そのものの要素であり、同じ現実世界に他者の感情が同等の権利を持って登場することはできないということです。なぜなら、私の美しいという感情は、内省すれば個人的で私秘的なものとして把握されるかもしれませんが、内省以前の現実世界においては、そもそも主体としての私や他者は登場し得ないからです。つまり、私の目の前には、誰にとってのものでもない美しい花がただ咲いているのです。

とは言え、同じ対象でも人によって印象は様々である、ということもまた明白な事実として私たちは理解しています。

では、そう捉えることを可能にしているものは何かと言えば、それは認識単独の感情です。

美しい花を内省すれば、そこに私の美しいという感情が見出されるのですから、同じように、他者に立ち現れているであろう花を内省すれば、当然そこには当人の何らかの感情が存在するであろうことを私たちは認識単独の感情として把握するのです。

通常、これはまず美しくも醜くもない花が存在し、それを眺める人の心にそれぞれ違った感情が芽生えるという構図で描かれます。しかし、感情が像と同じ内省であれば、それは本来的な他者感情の把握とは言えません。これを本来的に把握しようと思えば、私は私であることを忘れて、その人そのものとして花を眺めるのでなければなりません。そして、それは単に眺めるだけでなく、私が現実世界そのものであるように、その人の現実世界そのものに還元されるのでなければなりません。つまり、感情は人それぞれなのではなく、現実世界それぞれだと言わなければならないのです。

しかし、無像論で明らかなように、他者の感情は私の感情を転用した認識単独のものに過ぎず、還元されるのは結局私の現実世界でしかありません。したがって、他者の感情は本来的には措定し得ないと言わなければなりません。

では、同じ対象でも人によって印象は様々である、という解釈は誤りだということになるかと言えば、もちろんそんなことはないでしょう。おそらくそれは誤りではなく、私たちの限界を超えることなのではないでしょうか。

他者の感情は私のそれを転用したものに過ぎず、私は私が目の前の花に美しいという感情を抱いていれば、当然他者も美しいという感情を抱くはずだと考えたくなります。しかし、しばしばその転用は裏切られます。つまり、他者がその花を美しくないと言った場合などです。それによって、私は私の転用が必ずしも正しいわけではなく、他者には他者の感じ方があることを理解し、他者の感情を私のそれとは異なるものとして推察するようになります。それは、本来措定し得ない他者の感情があたかも存在するかのように私たちが振る舞うことによって、他者の感情を存在させているということです。そして、その振る舞いが成立している限りにおいて、他者の感情は存在していると言い得るのです。

ただし、私が美しい花が咲いている現実世界そのものである時には、他者の感情は忘れ、ただ美しい花が咲いている現実世界そのものであらなければなりません。そして、誰もがその状態であることが本来的な意味での「人それぞれ」なのです。したがって、その意味において現実世界は人の数だけ存在すると言えますが、しかしながら、私が現実世界そのものである時には、そのことを知る術はないでしょう。逆に言えば、私が美しい花に我を忘れている時、他者がその私をどう思うかは知る術がありませんが、そのような状態こそが本来的な意味での美しさの表れだということになるでしょう。

喜怒哀楽も同様です。

私が喜び、怒り、哀しみ、楽しむ時、それは主体としての私の登場しない現実世界そのものがそのようなものとして存在しているのであり、これを内省すれば、私秘的な喜怒哀楽という感情や主体としての私が見出されます。

ただ、私たちは美醜などより、喜怒哀楽のほうを自分の心に湧き起こるものとして捉えています。これは喜怒哀楽が他のどの内省よりも、人によって、あるいはその時々によって千差万別だからです。したがって、ややもすれば私たちはまず自分の心に喜怒哀楽が湧き起こり、それをその対象となる事物に投影しているかのように捉えてしまいます。

しかし、これもまずもって自分の心に湧き起こるとすると、すでに立ち現れている対象になぜ後から自分の感情を投影するのか説明がつきません。さらに、感情は私秘的だと考えられているのですから、それを現実世界という舞台に投影させることは二元論的矛盾となるでしょう。

したがって、やはりまずもって喜怒哀楽に満ちた現実世界があり、これを内省すれば、私の感情が内在的原因として働いていることが見出されると見做すべきです。ただし、実際たとえば自分の怒りが何に対して湧き起こっているのかわからないといった場合もあるでしょう。しかし、それもまず不可解な怒りに満ちた現実世界が存在し、これを内省することで、自分の怒りが一体どこに向けられたものなのかを分析している状態だということです。そして、その結果怒りの矛先が判明すれば、たとえそれが自分の勘違いであったとしても、私の私秘的な怒りは現実世界そのものへと還元され、その対象そのものが腹立たしいものになるのです。

いずれにせよ、私たちはしばしばこの内省された感情を現実世界から切り離して考えてしまいます。

たとえば私が映画を観て感動したとすれば、本来的にはまずもって感動的な映画があり、これを内省して初めて私の私秘的な感動が見出されますが、私たちはこの過程を省略して、目の前で繰り広げられている映画の中の世界とは別に、私に感動が生まれると解釈します。

一見、これで何も問題がないように思われるかもしれません。しかし、何度も述べているように、ここではある矛盾を犯しています。

それは感情の矮小化であり、実体視です。

つまり、感情が現実世界の内在的原因ではなく、私の個人的で私秘的な出来事になってしまうのです。

もちろん主観と客観という因果関係を考える時、まずもって中立的な映画があり、それを観た人の心に感動が生まれるという構図は必要でしょう。しかし、無像論で明らかなように、矮小化・実体視された感情はあくまで架空の概念でしかなく、本来的には、映画を観た感動は私が我を忘れて感動的な映画そのものになることのうちに内在的に働いているのでなければなりません。にもかかわらず、自分自身が出来事そのものであることに気づかず、内省された感情を切り離して考えれば、現実世界は無機質なものになり、感情は私の中のささやかな出来事として捉えられてしまうでしょう。

反対に、自分自身を出来事そのものとして捉え、感情を現実世界全体の内在的原因と考えるならば、世界は感情豊かなものになり、さらには私たち一人一人がそれぞれ違った世界そのものだということが理解されるはずです。感動的な映画を観た帰り道は、いつもの風景がいつもと違って美しいものに見えたりしますが、厳密に言えば、それは一時的であれ、感情という内在的原因が現実世界をそのようなものに変貌させたのであり、良くも悪くも、感情にはそれだけの力があると考えなければなりません。

ここまで、感覚と感情は、現実世界そのものの内在的原因であるという意味において、どれも同じ在り方をしていることを見てきました。

私が無自覚に現実世界そのものである状態から、内省によって見出されるものが感覚であり、感情なのです。その中で、私たちはその時々によってこれらを現実世界の中の出来事と捉えたり、私秘的な現象と捉えたりするのですが、特に感情においては、その現れ方が人それぞれであることから内省する機会が多く、私秘的な現象だと見做されやすいと言えます。しかし、それはあくまで程度の問題であり、どれも現実世界の別様の解釈であることに変わりはありません。

私たちは内省によって現実世界を主体的に生きることを可能にしているのですが、これを実在と捉えることはできません。内省は認識し得ないものの認識であるという意味において実在ではなく、本来的には全て現実世界そのものに還元されなければならないのです。

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