第3節 過去について

第2章

すでに何度も述べているように、現実世界の全てには認識が働いています。この宇宙に存在している物はもちろんのこと、その運動や様々な出来事も、私の認識なくして立ち現れることはできません。

ここで言う認識とは、視覚で言えば、私が目を閉じてもなお把握できるもののことだと考えて下さい。今実際に私に見えていないものも、私が一生出会うことのない人々も、私がそう認識する限りにおいて存在します。そして、その中には、過去の出来事なるものも含まれます。

私は過去を思い出します。そこに視覚や聴覚などの感覚は見出されません。しかし、何らかの形で色や音を思い出していることは確かでしょう。

ではそれは何かと言えば、すでに明らかだと思いますが、認識単独の現実世界です。目の前のリンゴは、認識が働いて初めてリンゴとして存在するのですが、この認識は像を離れて単独で物を立ち現すことが可能であり、冷蔵庫の中のリンゴなどがそれです。同じように、過去はかつて経験したことを認識単独の現実世界として立ち現すことで見出されるものなのです。

では、同じ認識単独の現実世界の中で、過去が現在ではなく、過去である所以は何でしょうか。それは率直に言ってしまえば、過去の感覚でしょう。私たちはこの素朴な感覚によって、冷蔵庫の中のリンゴが今存在しているのか、かつて存在したものなのかを判別しています。

では、それは具体的にどのようなものかと言えば、最も重要なのは時間的距離でしょう。

たとえば私が或る人と対面した際、その人とは以前どこかで出会っているはずなのにどこの誰かが全く思い出せない、ということがあったとします。この時、もし最初の出会いが数日前の出来事であったならば、おそらく私は少なくともそれがつい最近の出来事だったということだけは思い出すでしょう。つまり、過去には時間的距離の感覚が存在するのです。

これは本来私に立ち現れるべき過去がうまく立ち現れず、しかし内省してみると、時間的距離だけが見出されるということです。そしてその後、もしその人といつどこで出会ったのかが判明すれば、私には立ち所に数日前の出来事そのものが蘇ります。他にも、過去の感覚には現実感や鮮明さなどもあるでしょう。それらが過去の様々な物や出来事、感覚、感情などに付随し、私にかつて経験したという思いを抱かせます。これらは過去という認識単独の現実世界を内省すれば見出される内在的原因であり、私に過去が立ち現れる際に所与的に齎され、したがって像と同様、なぜそう立ち現れるかを問うことのできないものだと言えるでしょう。

しかし、過去にもまた像と同様、二つの誤解があります。

一つは、像が実物世界とは独立して存在するものだと思われているように、記憶も過去そのものとは独立して存在する何かだと思われているということです。

通常、私たちはまず事実としての過去があり、それを私が記憶として思い出すという構図を描きます。しかし、すでに述べたように過去は認識単独の現実世界です。たとえば私が朝、台所にある飲みかけのコーヒーを見て、昨晩隣室でコーヒーを飲んだことを思い出したとします。この時、私には認識単独の、コーヒーを飲んでいた昨晩の光景が思い浮かぶわけですが、それは私の頭の中の出来事ではなく、目の前の現実世界の出来事なのです。

過去が現実世界の出来事だというのは、少し奇妙に聞こえるかもしれません。しかし、それは今まさに隣室で友人がコーヒーを飲んでいることを知らされて想起することと、さして違いはないはずです。その隣室の光景は、私に疑いの気持ちがなければ、今まさに隣室で起こっている出来事として把握されるわけですが、これも内省すれば私の認識に過ぎないのであり、今現在の隣室の光景と昨晩の隣室の光景とで異なる点は過去の感覚の有無だけです。そうであれば、どちらも同じ現実世界の出来事としてはいけない理由はないでしょう。

過去が現実世界の出来事ではないように思われるのは、今現在の隣室の出来事は実際に隣室に行けば、その光景を目にすることができるのに対し、過去の出来事はもはや現在という、感覚を伴う現実世界と繋がっていないという事実があるからでしょう。しかし、そのことによって本当に現実世界と繋がっていないと言えるでしょうか。むしろ昨晩の飲みかけのコーヒーは、時間を隔てずして現在の飲みかけのコーヒーと繋がっていると言えるのではないでしょうか。なぜなら、もし昨晩の光景が今現在の光景と繋がっていないとすれば、私は何かを思い出す度にこの世界とは別の、過去という新たな世界をどこかで作り出していることになるのであり、そのような世界を存在させることのほうが不自然だからです。つまり、突如として立ち現れる過去の光景は今現在と同じ現実世界の中で起きている出来事だと捉えたほうがいいのです。

では、なぜ過去が現実世界の中の出来事だと思われないかと言えば、それは私が内省によって見出された記憶しか自覚することができないからです。

昨晩コーヒーを飲んでいた光景が認識単独の現実世界であれば、無像論で明らかなように、それは主体としての私そのものであり、本来的には私に自覚されない出来事です。したがってこれを自覚するためには、昨晩の光景そのものを一時中断し、一つの記憶として捉え直さなければなりません。そうすると、この矮小化・実体視された記憶があたかも過去そのものとは独立して存在する頭の中の出来事であるかのように把握されるのです。しかし、記憶はあくまで過去そのものの内在的原因が顕在化したものであり、本来的には現実世界に登場し得ない架空の概念だと考えなければなりません。

したがって、本来的な過去は昨晩コーヒーを飲んでいた光景そのものであり、それは現在とは独立して存在するのではなく、今現在の隣室という現実世界の厚みとして把握されるべきものです。そして、それはたとえば太陽から地球まで光が到達するのに8分19秒を要するという事実を知った後に、私たちが今現在の現実世界に8分19秒前の太陽を見ていると考えるのと同じことです。

違う点があるとすれば、それは8分19秒前の太陽が色や形を伴っているのに対し、昨晩の光景は認識単独の出来事に過ぎないということでしょう。しかし、逆に言えば、8分19秒前の太陽の1億4960万km向こうには、認識単独の今現在の太陽が存在していると私たちは考えているのではないでしょうか。すでに述べたように、認識単独の現実世界も、色や形を伴う現実世界と同等の権利を有しているのであり、昨晩の光景も8分19秒前の太陽と同様、この現実世界の存在だと考えて然るべきなのです。

しかし、今現在、私が飲みかけのコーヒーを見て、そこに昨晩の光景を重ねることはできても、それが遠く離れた場所からの想起である場合には、やはり頭の中の出来事だと考えたくなるかもしれません。それはこの場合、今現在の私の部屋もまた認識単独でしか立ち現すことができないという事情があるからでしょう。昨晩の光景も今現在の私の部屋も、どちらも私の認識という心許ないものであることから、どちらも頭の中の出来事だと判断されてしまうのです。しかし、今現在の私の部屋に関しては、私が帰路につき、家が近づいてくるにつれて、実際の部屋がまさにすぐそこにあるという意識を強くするでしょう。それは、もはや内省する必要がないほど、私の認識が心許ないものから確実なものへと変化していくからです。

したがって、これは頭の中の出来事であるか否かではなく、現実世界と内省のどちらを意識しているかという問題に過ぎません。

過去も同様です。

今現在、私が部屋にいれば、昨晩の光景をそこに見ることができますが、そうでない場合には、今現在の部屋が失われ、昨晩の光景しか立ち現れていないことから、たちまち心許なくなり、これを内省してしまうのです。そして、この先もし私の家が取り壊されてしまったとすれば、その時にはもはや私の部屋の光景は完全に頭の中だけの出来事として位置づけられてしまうでしょう。しかし、いつどこにいようと、私が過去の光景そのものである時、それは確かに今現在の私と地続きの場所に、時間の厚みとして存在しているのです。

そして、記憶が過去とは独立して存在しているという考えは、主体としての私が記憶を思い出すという概念をも引き起こします。それがもう一つの誤解です。

何度も述べている通り、本来、過去そのものを内省したものが記憶と呼ばれるべきなのですが、昨晩の光景が頭の中の出来事だと判断されれば、当然これを思い出しているのは主体としての私だということになるでしょう。

確かに、想起されたかつての自分を遠い記憶として内省し、若かりし頃を懐かしんだり、過去の過ちを後悔したりするのは主体としての私であるかもしれません。しかし、それはあくまで私たちが矛盾を犯しつつ、内省された主体としての私を自明のものとして取り入れていることによるものであり、本来、記憶そのものは現実世界には登場し得ない架空の概念なのですから、何者かに思い出される必要はありません。したがって、主体としての私は記憶を思い出すためのものではなく、記憶そのものがすなわち主体としての私なのです。

では、私たちが「思い出す」という概念によって何を表現しているかと言えば、それは無像論で明らかなように、現実世界と私の脳との関係性です。現実世界とそれによって引き起こされる私の脳の働きが何らかの形で関係しているというただそのことをもって、私たちは「思い出す」と表現しているのです。

したがって、記憶は私の頭の中にある私秘的な写真のようなものではありません。仮に写真のようなものだと想定すれば、その向こうに、もはや私には触れることのできない過去そのものが存在すると考えたくなります。しかし、そのような過去は存在しません。なぜなら、物そのものを内省したものが像であるのと同様、現実世界に立ち現れた過去そのものを内省したものが記憶だからです。

像というフィルターの向こうに物そのものを存在させることができないように、記憶という写真の向こうに過去そのものを存在させることはできません。本来、両者は同じ一つのものの二通りの解釈に過ぎないのであり、過去そのものと記憶があるのではなく、過去そのものの内在的原因が記憶なのです。

もちろん像が私秘的なフィルターとして振る舞う側面があるように、記憶にも私秘的な写真として振る舞う側面があることは確かです。そして、記憶には記憶違いというものがあり、それを正すために本当の過去を想定する必要があります。そのような概念がなければ、私たちは正しい過去を構築し、歴史や事件などを解明することもできないでしょう。しかし、実際の過去そのものは内省されれば記憶と呼ばれるもの以外には存在しないのであり、記憶として内省している最中の過去そのものは、もはや触れることのできないものなのではなく、単に一時中断している状態だと見做さなければなりません。今現在の現実世界の厚みとして立ち現れる過去は、タイムマシンに乗って行けるような別世界に存在するものではないのです。

そして、私が過去を思い出すという考え方は、当然、客観的世界と私秘的な内省との因果関係として理解されます。つまり、私の脳の働きによって私の中で記憶が生じるという因果関係です。

しかし、この因果関係に登場する記憶は内省によって顕在化された架空の概念であり、本来的には現実世界に登場し得ません。現実世界に登場するのは、内省する以前の過去の光景そのものです。したがって、脳との因果関係として結び付けられるのは、脳との因果関係を忘れて、過去の光景そのものを体現している私でなければなりません。しかし、私が過去の光景そのものである時には、脳との因果関係を把握できないのですから、私たちは記憶という概念を用います。これを媒介させることによって、私たちは脳から過去の光景そのものへの超越的転換を理解しているのです。さらに、過去そのものを記憶という概念に置き換えることによって、短期記憶や長期記憶、エピソード記憶といった詳細な分析を行うことも可能にします。しかし、いくら詳細な分析を行っても、これらを超越的転換によって過去そのものに還元しなければ、脳との因果関係として成立させていることにはなりません。

この還元は実験といった実際の行為の場においては難なく為されているのですが、それを知識として用いる段階になると、たちまち見逃されてしまいます。もちろん、私たちにとって記憶という概念は必要不可欠なのですが、実際に私に立ち現れるのはエピソード記憶といった概念ではなく、過去の光景そのものであり、記憶は私の頭の中に仕舞い込まれているのではなく、私に自覚されない過去そのものとして俄かに立ち現れるものだということを忘れてはならないでしょう。

また、過去には記憶を伴わない歴史上の過去なるものも存在しますが、これは私たちが様々な調査によって見出した事実を構築し、時間軸上に並べた結果であり、記憶と同様、ただの内省に過ぎません。したがって、もしそれを史実として認め、その過去を存在させたいのであれば、私はこれを想起し、過去そのものにならなければなりません。この還元によって初めて過去は成立します。しかし、この時記憶を伴っていないのであれば、どのようにしてそれを過去として成立させるのかという疑問が生じるかもしれませんが、それは時間という数値化されたものに、私たちが過去の感覚を与えていると言うことができるでしょう。つまり、私の現実世界には私の生きた数十年の厚みがあるのですから、それを頼りに百年前や千年前を想像するということであり、年齢を重ねるほど、遠い過去でもより時間の感覚を与えやすくなることは誰もが知っていることでしょう。

したがって、自分が経験していない過去は、記憶を伴う所与的な過去の延長線上に実在させていると言うことができます。そして、もし歴史に誤りが見つかれば、私たちはこれを内省によって再構築し、新たな歴史を再び過去そのものとして還元するという営みを繰り返すのです。

では、もはや触れることのできない過去そのものは存在しないのかと言うと、可能であれば、それはその過去を今現在として再び生きる、ということになるでしょう。しかし、それは過去として自覚するのではなく、今現在として無自覚に生きることになるのですから、もはや過去として存在しているとは言えないでしょう。これは他者の現実世界そのものになれないのと同じことです。過去は、過去の光景を想起している最中の私そのものであり、私が触れられるようなものではないのです。

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