第4節 他者の像

第1章

視覚の話の中で、「私に見えている色が他の人に見えている色と同じであるかどうかを確かめる術はない」と言われることがあります。これは、つまり他者には他者の視覚が存在すると考えられているということです。

しかし、この前提は正しいでしょうか。

他者に見えている色を確かめる術がないというまさにそのことが、他者の視覚の存在に根拠がないことを示しているのではないでしょうか。

他者の視覚が持ち出される場面として最も多いのは、視覚に関する科学的説明においてでしょう。「物に反射した光が目に入り、それが電気信号として脳に伝わる」というものです。そして科学は難なく、その結果として当人に視覚が生じると説明します。しかし、私たちには他者の視覚を確かめる術がないのですから、当人の証言に頼る他なく、この因果関係を客観的事実として証明することはできません。

それでも、他者は自分と同じ人間なのだから、当然自分と同じように視覚を持っていると考えるのは自然なことでしょう。事実、私たちは他者に視覚が存在するという前提のもとに日常生活を送り、それでうまく機能しているのですから、これを疑う必要はないと思うかもしれません。

しかし、もしこれがロボットだったらどうでしょうか。私たちと何一つ違わずに、自分に見えている景色について語ることのできるロボットがいたとすれば、私たちはそのロボットの視覚の有無を断言することができるでしょうか。

この他者の視覚というのは言うまでもなく、これまで考察してきた認識単独の像のことです。私たちはこの他者の像を漠然と当人の顔の辺りに置き、その人の視覚を理解します。「見る」とは視線の先に物があるという位置関係であることはすでに述べた通りですが、私たちはその結果としていつもこの像を想起しているのです。

では、この他者の像は存在すると言えるでしょうか。

前節で、冷蔵庫の中のリンゴは認識単独のリンゴとして実在すると述べました。しかし、他者の像は冷蔵庫の中のリンゴとは違い、内省であり、内省は実在ではありません。また、これが自分自身の像の話であれば、矛盾であるとは言え、それが実物世界の別様の解釈であることを考えれば、内省をやめればいつでも元の実物世界に還元することができるわけであり、実在とは言えなくても、実物世界と繋がっていると言うことはできるでしょう。しかし、他者の像は他者の実物世界の内省によって得られるわけではありません。私は私の実物世界の内省によって得られた像を認識単独の像として他者に転用しているに過ぎず、他者の像には還元すべき実物世界が存在しません。そうであれば他者の像は実在ではないどころか、措定することさえできないのではないでしょうか。

つまり、そのようなものは存在しないと言わなければならないということです。

私は自分の像を認識単独の像として他者やぬいぐるみに転用しますが、それらは全て結局のところ私の実物世界に還元されるものなのです。その証拠に、私が3Dメガネを一度も掛けたことがなければ、3Dメガネを掛けている人に見えている景色を思い描くことはできません。

像はどこまでも私の像でしかないのです。

他者の像が存在しないと言ってしまうのは少し乱暴でしょうか。

もしそう思うとすれば、それは自分の像が疑いようもなく実在しているという前提があるからではないでしょうか。

そもそも自分の像も実在ではないのであれば、そこに違和感や抵抗感を抱く必要はないはずです。むしろ自分の像が実在ではないことを前提にするならば、他者の像もまた、ロボットのそれと同程度に悩ましい問題であることは明らかです。私たちは自分の像が実在すると思っているからこそ、その延長線上で他者の像も実在すると考えたくなりますが、像という概念そのものの危うさを考えれば、他者の像のそれは私の比ではないでしょう。そして反対に、像が単にフィルターのような個人的なものではなく、実物世界そのものの内在的原因であることを考えれば、自分の像というものの特異さについて、より意識されて然るべきです。

それは私の顔の辺りに置けるような収まりの良い代物ではないのです。

もちろん、だからと言って今までのように他者の像を想像してはならないなどと言いたいわけではありません。他者の像が私の像と同様、反証可能性に晒されつつ、これまでうまく機能してきたことは紛れもない事実です。しかし、私たちがあまりにも安易に他者の像を実体視し、それによってこの地球上に人間の数だけ像が存在するかのような、言わばメタ客観視に陥ってしまってはならないのです。

では、視覚に関する因果関係についてはどのように解釈すべきでしょうか。

「物に反射した光が目に入り、それが電気信号として脳に伝わり、その結果生じる視覚」としての他者の像も存在しないのでしょうか。もちろんこれは単に目と物との位置関係の結果として考えることも可能です。

しかし、いずれにしてもここにおいて問題なのは他者の像の存在の有無ではなく、他者の像をまさにどのように解釈すべきかということでしょう。なぜなら、他者の像は知り得ないとしても、どのように知り得ないかを正しく理解することは、実物世界に対する理解全体に大きな影響を与えるからです。

そこで、まず自分自身における視覚的因果関係について考えてみます。

私においても、「リンゴに反射した光が目に入り、それが電気信号として脳に伝わった結果、私にリンゴの像が生じる」という因果関係は成立します。ではこの時、実際私に現前しているリンゴは、前者の客観的世界のリンゴでしょうか。それとも、後者のその結果生じるリンゴの像でしょうか。

私たちは、たとえばサングラスを掛ければ赤いリンゴが暗く見えるという因果関係が成り立つことを知っています。この時、客観的世界には赤いリンゴがあり、暗く見えるリンゴは私の像だと判断します。つまり、実物世界は客観的世界のほうだということです。リンゴが暗く見えるのは私の個人的な変化であり、その向こうには、私には見えないが、実在の赤いリンゴが存在しているというわけです。

しかし、すでに述べたように、もしそれが二度と外すことのできないサングラスだったとしたらどうでしょうか。私はやがてその暗いリンゴのほうを実物として捉え始めるのではないでしょうか。

そうすると元の客観的世界はどうなるかと言うと、厳密に言えば、私から消失してしまいます。なぜなら、暗いリンゴを実物と捉えた瞬間に、私には見ることのできない赤いリンゴの存在など必要なくなるからです。もちろん、通常であれば他者との関わりの中で赤いリンゴの存在を思い知らされるのであり、暗いリンゴを完全に実在だと思い込むことは難しいでしょう。しかし、それはただ赤いリンゴを実在だと思う人が圧倒的多数だというだけのことです。

もし全ての人が二度と外せないサングラスを掛けたならば、暗いリンゴのほうが実在となるのであり、本来客観的世界など存在しません。私に存在するのは現前する景色を実物と捉えるか、像と捉えるかの二通りの解釈だけです。

したがって、このサングラスの視覚的因果関係は私がその結果をリンゴの像と捉える限りにおいて成立しますが、それを実物のリンゴと捉えた瞬間に客観的世界は消失し、実物のリンゴは客観的世界から暗いリンゴへと、言わば超越的転換が為されると考えなければならないのです。

では、通常の視覚的因果関係に戻ります。

私の脳に科学的出来事が起こった結果、私に視覚が生じる。ここにおいて科学的出来事は実物世界であり、視覚はただの像ということになります。しかし、日常においては、私は後者の像を実物世界として生活しているわけですから、両者の間で超越的転換が為されているはずです。したがって、科学的出来事は消失します。しかし、二度と外せないサングラスの場合とは異なり、通常の視覚的因果関係においては、超越的転換の前と後で何一つ変わらず、全く同じ世界が存在しているわけですから、そこにわざわざ超越的転換を見て取る必要がないのです。

しかし、もしそのことに気づかず、実物世界で起こる科学的出来事がどのようにして私たちに像を生じさせるのかと考えてしまえば、この因果関係は奇妙なものに思われるでしょう。なぜなら、すでに目の前にあるリンゴがなぜ私の脳の中でもう一度リンゴとして現れなければならないのかという問題に直面してしまうからです。

したがってそうではなく、結果としてのリンゴの像は実物世界に還元されなければなりません。

視覚的因果関係において、まず登場するのは実物としてのリンゴや脳を含む科学的出来事です。では、その結果として生じるものはと言うと、本来ここに登場するのはリンゴの像ではなく、実物のリンゴが存在するという出来事なのです。そしてそれは、原因としての科学的出来事との因果関係を忘れて、第2節でも触れたように、私がただリンゴが存在しているという出来事に没頭する限りにおいて成立するということなのです。

言い換えれば、本来両者を頭の中で同時に把握することはできないのであり、この因果関係は私の行為そのものによって体現されなければならないのです。逆に言えば、両者を頭の中で把握しようとする場合、科学的出来事を実物世界として眺めれば、結果としてのリンゴの像は認識単独の像でしかなく、反対に、結果としてのリンゴを実物として捉えれば、原因としての科学的出来事は内省された認識でしかありません。にもかかわらず、両者を頭の中で同時に実物として捉えようとすれば、奇妙な因果関係として把握されてしまうことになるのです。

さらに言えば、視覚的因果関係が私の行為そのものによって体現されなければならないのであれば、両者を頭の中で同時に把握することには限界があります。なぜなら厳密に言えば、そこには超越的転換が欠如しているからです。もちろん通常であれば、たとえ超越的転換が欠如していても、この因果関係は恒常的なものであり、矛盾なく成立すると言えます。しかし、もしこの因果関係が全体的な変化を齎すようなものであれば、話は別です。

たとえば私が脳に何らかの操作をして、赤いものが青く見えるようにすることができたとすれば、私はどうなるでしょうか。脳を操作した途端に、私にはもはや初めから青いものなのか、赤いものが青く見えているのかどうかの区別がつかなくなるのではないでしょうか。

つまり、赤いものが青く見えるという因果関係を頭の中で把握することと、実際に体現することとの間には大きな隔たりがあり、超越的転換の後ではもはやこの因果関係は成立しなくなってしまうのです。

それにしても、脳というたった数百グラムの物質を操作しただけで世界が変化するというのはいかにも奇妙な現象です。しかし、私の像がただの個人的なものとしてだけでなく、実物世界全体の内在的原因としても働く奇妙なものであることを考えれば、それはそれほど不思議なことではないかもしれません。脳に限らず、世界はサングラス一つで全く違った姿に変化し得るのであり、それを可能にする像は脳よりもむしろ不思議な存在だと言えるでしょう。

さて、では他者における視覚的因果関係についてはどうでしょうか。

私においては、それが超越的転換であるとは言え、客観的世界と像との因果関係が成立することがわかりました。しかし他者の像は、すでに述べた通り私の像の転用に過ぎないのでした。したがって、この像には還元すべき実物世界が欠如しています。その中で、仮に科学的出来事との因果関係を他者の像ではなく、他者による体現として想像するとすれば、それは両者の因果関係を忘れて、当人が目の前に物が存在するという出来事そのものになるということでしょう。

しかし、それはもはや他者ではなく、「私」でしかありません。

これまで見てきた通り、私たちは視覚に対して二つの捉え方をします。つまり、一方で現前する景色を実物世界と捉え、物に反射した光が脳に到達する過程を見出し、もう一方で現前する景色が私秘的な像であることも知っています。そして、この両者を因果関係として結び付けるのですが、私においてはその先に像を実物世界に還元するという超越的転換が用意されています。しかし、他者においては実物世界が欠如しており、他者の像を還元しようとしても、結局それは私に引き戻されてしまうのです。

ただし本来的に言えば、像に「私の」や「他者の」といった所有格をつけるべきではないでしょう。実物世界は私に存在しているのでも、他の誰かに存在しているのでもなく、ただ存在しているのであり、これを内省して初めて像が見出されるからです。

しかしそうは言っても、やはり私の像とは別に、他者の像を措定しなければならないと思うかもしれません。もしそう思うとすれば、それは実物世界を像解釈した途端に、それが個人的なものとして振る舞うようになるからでしょう。像が個人的なものであれば、当然他者の像の存在も認めざるを得なくなります。

しかし、ここで言う私は「主体としての私」であり、私と他者という二項関係において見出される私ではありません。私と他者という二項関係は身体としてのそれであって、それを含めた実物世界そのものの内省である主体としての私は他者の存在を必要としないはずです。

主体としての他者が存在しない絶対的な私という考えは独我論的だと思われるかもしれません。しかし、そもそも像は顕在化させなければ、実物世界の内在的原因として働く無限定なものです。それ故、私たちがこれを十全に知ることは叶わないのであり、その先のことは私たちの与り知らないものだと言わなければならないのです。

したがって、これを独我論と呼ぶのは早計です。むしろ独我論とは、顕在化させた像を実在だと考えることに他なりません。

以上で、この章を終わります。

ここでは、目の前の世界が実在であるという日常の感覚に従うことによって、像は実在ではないという結論に至りました。逆に、目の前の世界が実在ではないと信じることはこの結論を受け入れるより困難でしょう。

ただし冒頭で述べたように、頭で理解することと、実践することとは別事であり、実際にそのようなものとして日常を眺めることで初めてこの考察は完結します。

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