私は音を聞く。
では、それはどこから聞こえてくるのかと言えば、風鈴の音は風鈴から、小鳥のさえずりは小鳥のくちばしから聞こえてくる。私たちはそう考えています。
これはつまり、音は現実世界で発せられているということです。現実世界とは、私たちが日常生活を送っているこの当たり前の世界です。
そして、私は音を聞きます。この時、私たちは現実世界で発せられた音を私の耳で聞いていると考えているでしょう。しかしそれだと、すでに現実世界で発せられた音が私の耳に届いてもう一度聞こえる、という奇妙な構図になってしまいます。
これは一体どういうわけでしょうか。
前者の、現実世界で発せられている音というのは、誰のものでもない現実世界の音です。他方、後者の私に聞こえている音というのは、私にだけ聞こえる音だと言えるでしょう。なぜなら、たとえば私が耳栓をしていた場合、目の前で風鈴が揺れていても、その音を聞くことはできないわけですが、これは私にしか起きていない現象だと誰もが判断するからです。
つまり、私に聞こえる音というのは、他者には知り得ない私秘的な聴覚としての音なのです。
したがって、両者はそもそもその在り方が異なります。その中で、仮に私秘的な聴覚のほうを実在だと考えれば、私は誰とも意思疎通できなくなるわけであり、やはり音は現実世界で発せられていると考えるべきでしょう。たとえ私が耳栓をしていたとしても、耳栓の向こうでは風鈴の音が鳴っていると考えるのが私たちの習わしであり、決して現実世界から音が消失したとは思いません。音は然るべき風鈴から発せられ、周辺に鳴り響いているのであり、私に届いて初めて現実世界に音が生じるわけではないのです。
では、私秘的な聴覚としての音とは一体何なのかと言えば、それは内省です。
耳栓をした私は耳栓の向こうでは風鈴の音が鳴っていると考えるのですが、実際私に広がっているのは静寂の世界です。したがって、私はまずこの静寂の世界そのものを内省し、それが私秘的な聴覚でもあることを自覚します。そして、それによってこの静寂の原因が現実世界の側にあるのか、それとも私の聴覚の現象であるのかを分析することが可能になり、耳栓をしていることから、私の聴覚の現象だと捉えます。
他にも、耳鳴りはまず現実世界の中の音として把握され、この出来事そのものを内省して、初めてそれが私にだけ聞こえる聴覚の問題だと判断されます。あるいは、ヘッドホンでだんだん近づいてくる足音を聞かされれば、まず本当に近づいてくる足音があり、これを内省して初めて錯覚だと理解できるのです。そしてこのことから、厳密に言えば、「私」は音を聞いているのではなく、現実世界で音が発せられているという出来事そのものだと解釈されなければなりません。
まず、主体としての私の登場しない現実世界で音が発せられているという出来事そのものがあり、この現実世界そのものを内省することによって私秘的な聴覚、あるいは主体としての私が見出されるということです。これは前章ですでに考察した通りです。
したがって、通常の風鈴の音も、現実世界で鳴っている音が私の耳に届いてもう一度聞こえるのではなく、ただ風鈴が鳴っているという現実世界そのものが存在し、これを内省すれば、私にだけ聞こえる私秘的な音としても把握されると解釈されなければなりません。そしてこの内省は、私たちが世界を正しく把握することを可能にするのですが、これが幾度となく繰り返されることで、聴覚や主体としての私が自明なものとして実体視され、「風鈴の音は風鈴から鳴り、そして私に聞こえる」という一般的な捉え方になるのです。
私たちが聴覚としての音を用いる場面は他にもあります。それは科学的説明においてです。つまり、風鈴から伝わってきた空気振動が私の耳に入り、それが電気信号として脳に伝わった結果、私に音が生じるという因果関係です。しかし、そうすると現実世界に存在する私の脳が刺激されることによって、同じ現実世界に存在する目の前の風鈴から音が鳴るという奇妙な構図になってしまいます。あるいは、他者で考えると、他者の脳に刺激が与えられた結果、その当人に聞こえている音が一体どこで鳴っているのかわからないという問題が生じます。
これらは視覚で言えば、投影問題と呼ばれる類のものです。つまり、私の脳で生じたリンゴの像が目の前の実物のリンゴに投影されるというもので、すでに存在するリンゴの上からさらにリンゴの像が投影されるという奇妙な構図です。しかし、それは像を実物世界の別様の解釈だと考えることによって解消される、と前章で結論付けました。
聴覚も同様です。
ただ、視覚においてはリンゴの色や形が私の目に飛び込んできて私にリンゴが見えるとは考えづらいが、聴覚においてはわざわざ空気振動など持ち出さなくても、風鈴から発せられた音が私の耳に到達して私に音が聞こえると考えればいいのではないかと思われるかもしれません。しかしそれだと、私の耳に到達する前にすでに鳴っている音というのが一体何を表しているのか説明がつかないのです。
では、なぜ風鈴の音が私の耳に到達して、私に音が聞こえると思われてしまうのでしょうか。
それは、私たちが「聞く」という表現を誤解しているからです。
前章で明らかなように、聴覚としての音というのは、顕在化しなければ現実世界そのものの内在的原因であり、私が聞くことのできるような代物ではありません。にもかかわらず、私たちは顕在化によって、あたかもそれを私の耳で聞いているかのように錯覚してしまうのです。
では、私たちの「聞く」という表現が実際に意味しているものは何かと言えば、それは私の耳と音源との単なる位置関係です。
風鈴が鳴っているという出来事が立ち現れている時、身体としての私はその音を立ち現すことができる場所にいなければなりません。その然るべき場所と音源との位置関係を指して、私たちは「聞く」と表現するのです。そして、これを科学的に解釈すれば、空気振動が電気信号として脳に伝わるということになるのですが、いずれにせよ、その結果私に音が聞こえるという説明が為されます。しかし、私に聞こえる音というのは、本来的にはあくまで現実世界を内省することによって得られる架空の概念であって、実在と捉えることはできません。したがって、聴覚的因果関係は両者を頭の中で把握する限りにおいては、客観的世界と私秘的な聴覚との因果関係として解釈すればいいのですが、厳密に言えば、この架空の概念を介して、「私」そのものとしての音への超越的転換が為されていると考えなければなりません。これも前章で述べた通りです。
では、なぜ視覚とは違い、聴覚においては音自体が私の耳に迫ってくるように感じられるのでしょうか。
それは、聴覚の原因である空気振動の速度の問題です。
視覚においては、目の前のリンゴからリンゴの色や形が発せられるとは考えません。それは、色や形が迫ってくると考える暇がないほど、視覚の原因である光の速度が速いためです。しかし、太陽ほどに距離が離れていれば、その色や形が8分19秒かけて地球に届くと表現したくなるのであり、視覚も聴覚もその構図は同じです。
では、なぜ速度の違いが両者の立ち現れに影響を及ぼすのかと言えば、それは現実世界が認識を内在的原因としているからです。音も視覚における物と同様、認識の働きがなければ、ただの音の広がりとも言えない茫漠としたものでしかなく、風鈴の音は認識が働いて初めて風鈴の音になります。
また、耳栓をしていても鳴っている風鈴の音は、この認識が単独で立ち現す音です。その中で、音に関しては、音源から私の耳に届くまでの時間が視覚に比べて長いために、視覚における物のように空間の中の特定の場所としてではなく、ある程度の広がりをもって把握されます。それが、音が直接的に私の耳に届くというイメージを私たちに抱かせるのです。しかし、それは決して私の耳に届いて初めて音が聞こえるという意味に捉えてはなりません。そうではなく、まず音源から発せられた音が立ち現れ、その音は性質上、ある程度の広がりをもって把握されると言うに留めなければなりません。
匂いも同様です。
現実世界で発せられている匂いと、私が感じるものとしての私秘的な嗅覚は、同じ一つのものの二通りの解釈ですが、私たちはこの両者を知らず知らずのうちに混同して用いています。つまり、コーヒーの香りはコーヒーから発せられているのでもあり、私の鼻に到達して初めて香るものでもあると捉えています。しかし、私の鼻に到達して初めて香るのであれば、コーヒーは香りを発することができなくなるはずです。なぜなら、それだと私の鼻があるところにしか匂いは存在せず、私が直にコーヒーに鼻をつけない限り、コーヒー自体に香りがないことになってしまうからです。
あるいは、匂いの物質を鼻に吸い込んだ結果、私に匂いが生じるというのであれば、それは私秘的な匂いであり、もはや現実世界に匂いは存在せず、ただ私の中で去来するものだということになってしまいます。したがって、匂いは私の鼻で嗅いでいるのでも、私の鼻に到達して初めて生じる私秘的なものでもなく、まずもって現実世界の中で立ち現れるものだと解さなければなりません。
私がコーヒーから立ち昇る香りを嗅いだ結果、私の中でコーヒーの香りを感じるのではなく、まずもってコーヒーから立ち昇る香りがあり、その香りと私の鼻との接触をもって「嗅ぐ」と表現するのでなければならないのです。たとえそれがどこから来た匂いなのか特定できない場合であっても、私はまずそれを現実世界のどこかから発せられている匂いとして把握するのであり、私秘的な嗅覚として捉えているわけではありません。
匂いを嗅覚として把握するのは、あくまで立ち現れた匂いそのものを内省する限りにおいてです。
では、現実世界の匂いと嗅覚が混同されやすいのはなぜかと言えば、それは匂いの物質の動きが不規則であり、匂いがその発生源から私の鼻に到達するまでに時間差が生じるからです。しかし、私たちはその時間差を、匂いを立体的なものとして捉えることによってすでに表現しているのであり、さらにその匂いを私秘的な嗅覚として私が感じる必要はないのです。
日常を振り返れば、コーヒーの香りはコーヒーから立ち昇り、その周辺に漂っていることは明らかです。したがって厳密に言えば、嗅覚もまた主体としての私が嗅いでいるのではなく、匂いそのものを内省して見出されるものであり、それがすなわち主体としての私です。
味覚についてはどうでしょうか。
これも単にコーヒーにはコーヒーの味が存在すると捉えるのが私たちの習わしですが、その一方で、味は直に舌に触れなければ感じることができないため、私秘的な味覚の問題だと思われがちです。しかし、舌に触れなければ感じることができないとは言え、コーヒーの味がコーヒーから離れて私の中で立ち現れるのではなく、コーヒーそのものの味だと私たちが考えているのは明らかでしょう。したがって、味覚もまた、まずもって現実世界にただコーヒーの味として存在し、これを内省して初めて見出されるものだと考えなければなりません。
つまり、味もやはり私秘的ではなく、他者との共有物として把握されるべきものだということです。
もしそう思えないとすれば、それは舌と物との接触が直接的であるため、両者の区別が判然としないからでしょう。しかし、仮に味を私秘的なものと見做せば、それは他者との共有物である現実世界の存在ではなくなるのですから、それとは別に、味覚が存在する感覚世界のようなものを想定しなければならなくなり、そうすると、それが二元論や科学的因果関係の難問を引き起こすことになります。
実際、私たちはコーヒーを飲んでいない時でも、他者との共有物である目の前のコーヒーを美味しそうだと表現するのであり、いかなる場合でもコーヒーの味はコーヒー自体に備わっていると捉えていると言えるでしょう。そして、この場合のコーヒーの味というのは、言うまでもなく認識単独の味です。私たちは実際にコーヒーを飲んでいない場合でも、コーヒーが舌に触れた時に味わうであろう味を認識によってそこに見出しているのです。それは耳栓をしていても鳴っている風鈴の音と同じことです。
あるいは、もし私がコーヒーを飲んだことがないとすれば、そこには未知なる味が存在しているのであり、私がコーヒーを経験するまでコーヒーに味がないわけではないでしょう。したがって、「味わう」という表現は舌と物との接触のことであり、その結果生じる味覚は、現実世界に存在する味そのものが内省によって私秘的に捉えられたものです。風邪を引いている時には食べ物の味が変わってしまうことがありますが、それが食べ物のほうではなく、私の味覚の問題だと判断できるのはこの内省のおかげです。
では、触れることや痛むことはどうでしょうか。
何かに触れた時、あるいはどこかが痛む時、私はその場所を特定できるわけですが、これもまずもって私はその特定の場所の感触や痛みそのものであり、それを内省して初めて触覚や痛覚が見出されます。
触覚においては、触れている場合と触れられている場合とがありますが、その判断は私の認識によって決まると言えるでしょう。重要なのは、まず接触という中立的な出来事が存在し、それを認識が「触れている」あるいは「触れられている」と判断するということではなく、まずもって「触れている」あるいは「触れられている」という出来事が立ち現れ、これを内省すれば内在的原因である認識がいずれかの判断を下していることが見出される、と解釈しなければならないということです。
痛覚も同様です。
たとえば、幻肢は確かに特定の場所の痛みとして存在し、しかし内省すれば、それはどこにあるのでもない私秘的な痛覚としての痛みでしかなく、なおかつ幻覚だと判断されるのです。さらに、身体には身体感覚なるものが存在しますが、これについても同様です。私は身体を現実世界に存在するものとして措定しますが、内省すればそこに身体感覚という内在的原因が働いていることを見出します。
ただ、現実世界の中で、特に高度な技術を必要とする場合において、自分の身体を思い通りに動かすことが困難であることは誰もが知っていることでしょう。それ故、私たちは内省であるはずの身体感覚を意識することが多く、あたかもこれを実在であるかのように思いたくなりますが、現実世界を生きている私たちにとっての実在は身体だけであり、身体感覚はあくまで内在的原因だと言わなければなりません。
また、これらはどれも他者との共有物として捉えることのできないものだと言えます。なぜなら、他者の腹痛を私が痛むことはできないからです。しかし、それは単に痛みを引き起こす原因が光や空気振動のような外的物質ではなく、身体的物質だからであり、私の腹痛は現実世界の私の腹部に、他者の腹痛は他者の腹部にあるのであって、私秘的な痛覚が実在するわけではありません。そして、他者の腹痛とは、言うまでもなく認識単独の痛みです。
コメント