第4節 未来について

第2章

私は未来を想像します。それは明日の予定であったり、10年後の自分であったり、時には自分の死後もなお残る世界のことであったりします。

これらを純粋に想像している瞬間というのは、本来的に言えば、主体としての私の登場しない現実世界の中の未来そのものです。夜寝る前に、明日の仕事の手順を想像している時、私は今現在の現実世界の厚みとして、実際の会社の所在地に認識単独の明日の自分を立ち現しています。しかしそれだと、私は無自覚な未来そのものであり、自分が未来を想像していることを自覚できません。

私がそれを自覚するためには、この未来そのものを内省しなければなりません。つまり、明日の仕事の光景そのものを一時中断し、これを私秘的な想像として捉え直すことによって、私が未来を想像しているという自覚が生まれます。これらは全て過去と同様です。

では、それが未来の想像であって、単なる空想ではないと判断される要因は何であるかと言えば、これも過去と同様、未来の感覚です。しかし、過去とは異なり、未来には所与的に齎される未来の感覚は存在しません。仕事の手順を想像する時、それが明日の光景であるか、明後日の光景であるかを区別する何かかが初めからあるわけではありません。そこで、私たちは時間という数値化されたものを頼りに、この想像に未来の感覚を与えることになります。

これは記憶を伴わない歴史上の過去と同様です。しかし、歴史上の過去においては、記憶を伴う所与的な過去の延長線上に存在するという意味において実在的であるのに対し、未来においては、想像はどこまでも恣意的です。それ故、未来は過去に比べて、あくまで私の想像に過ぎないという意識が強くなりますが、それでも私が明日の仕事の手順だと思えば、それは明日の光景として立ち現れます。

したがって、未来は単なる空想とは区別されます。とは言え、明日の光景そのものも内省すれば単なる想像であり、このことから私たちはついそれとは別に実際に明日訪れるであろう未来が存在すると考えてしまいます。これは明日の光景を想像として顕在化させた上で、さらにその向こうに本当の未来なるものを想定しているということです。つまり、まだ見ぬ本当の未来とその青写真という構図です。しかし、過去とは異なり、未来には所与的に齎される未来の感覚も、他の感覚や感情も伴わないのですから、想像としての未来はもちろん、本当の未来なるものも現実世界と繋がっているとは言えません。

過去においては、現実世界と繋がっている記憶としての過去だけでなく、便宜上、他者との共有物としての本当の過去なるものを想定することができますが、未来は不確定なのですから、そもそも本当の未来なるものを想定することすらできません。したがって、未来は現実世界の厚みとして今まさに存在しているものが全てであり、しかも、それは内省すればどこまでも想像の産物に過ぎず、当然タイムマシンに乗って行けるような本当の未来など存在しません。

私が自分の死後もなお残る現実世界のことを想像できるのは、それが主体としての私の登場しない今現在の厚みとしての未来そのものだからですが、ひと度内省すれば、時間軸上で私が私の死後も残る現実世界を自分の目で確かめることはできないことに気づきます。この時、私たちは自分の死後も残る現実世界を立ち現すことは矛盾であるという結論に至るわけですが、そもそも実際に訪れるであろう未来なるものが存在しないのですから、そこには終始、想像以外の何物も登場していないのであり、未来はどう足掻いても私の想像でしかないのです。

明日の仕事の手順は私がそのように想像する限り、永久に明日の仕事の手順であり、明日が徐々に近づいてくるわけではありません。刻一刻と明日が迫ってくるように思われるのは、10時間後が9時間後に、9時間後が8時間後になるという、時間軸上に置かれた想像を、その都度未来の感覚を与えた未来に還元しているからに過ぎません。そして、いざ実際にその仕事を始めるという段階になれば、想像していた未来が現実のものになったということになりますが、それは単に今現在と、もはや過去となった昨晩の想像がおおよそ合致したに過ぎず、未来がどこからかやって来るわけではありません。

その中で、私たちはたとえば「明日太陽が昇る」といった確実な出来事に対しては、翌朝の太陽も現実性を持って想像します。そして、その想像が実際の翌朝の太陽と合致した時、何の驚きもなくその事実を受け入れます。反対に、「明日宝くじが当たる」といった想像においては現実性がなく、もしそれが外れたとしても、さして驚くことなく私たちはこれを受け入れるでしょう。

そのようにして、私たちは未来と空想を区別しています。そんなことは分かりきったことだと思われるかもしれませんが、案外私たちは現実世界に対して受動的になっている時や、自分の意志ではどうすることもできないと思われる出来事に対しては、決められた未来が待ち構えていると考えてしまいます。

たとえば、これまで全ての予言を的中させてきた占い師が新たな予言を告げたとすれば、或る人にとってはそれは一つの予想に過ぎないかもしれませんが、また別の人にとってはそれが未来そのものになるでしょう。そして、その予言が外れた場合にどちらがより驚くことになるかは明白です。したがって、多くの想像は人によってその現実性が様々であり、現実性を増せば増すほど、それを本当の未来だとする意識を強くすると言えますが、いずれにせよ、やはり未来は不確定なものだということに変わりはありません。

したがって、過去と未来は同じように扱うことはできません。私たちが過去と未来を同じ時間軸上に並べて、同じように扱うことができるのは、偏に現実に訪れるであろう未来を想定しているからですが、厳密に言えば、明日太陽が昇るかどうかも確実ではないでしょう。未来が現実に訪れるという思いは、想像としての未来の中に知らず知らずのうちに忍び込み、たとえば運命という概念を未来に持ち込んだりしますが、想像と異なる未来が現実として立ち現れた時、私たちは描いていた未来が想像の産物に過ぎなかったことを思い出します。

過去も未来も今現在の厚みとして存在しますが、未来に関してはどこまでも不確かであることを忘れてはなりません。ただし、過去もまた私たちの記憶の産物に過ぎないことを考えれば、本来的に実在するのは今現在しかないのであり、月並みではありますが、現実世界というのは「永遠の今」が続いていると考えるのが妥当でしょう。

以上で、この章を終わります。

主体としての私の登場しない現実世界そのものは、色や音などで溢れ、喜怒哀楽を纏い、さらに過去や未来が交錯しており、これらを内省すれば感覚、感情、記憶、想像といった私秘的なものが内在的原因として働いていることが見出されます。そしてそれを可能にしているのは、現実世界を一時中断し、それらを顕在化させる認識の働きです。これによって私たちは主体的に生きることが可能になるわけですが、しかしながら、現実世界と内省は常に混在していることから、しばしば私たちを倒錯へと導きます。つまり、内省の矮小化・実体視です。しかし、内省はあくまで架空の概念として扱わなければならないのですから、本来的にはこれらを現実世界に還元し、私たちは無自覚な現実世界そのものであらなければならないのです。

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