第1節 思いは私秘的ではない

第3章

目の前にコーヒーカップがある。

これは無像論で明らかなように、厳密に言えば、私にコーヒーカップが見えているということではありません。コーヒーカップは身体としての私に見られるのでも、主体としての私に見られるのでもなく、まずもって主体としての私の登場しない現実世界そのものの中に存在し、これを内省したものが主体としての私だからです。

しかし、このことから直ちに、現実世界は私にしか存在しない独我論的なものだと結論付けることはできません。なぜなら、コーヒーカップが他者との共有物として立ち現れていることは明らかだからです。

では、何がコーヒーカップを他者との共有物たらしめているかと言えば、それは私の認識です。現実世界は私から独立して存在しているのではなく、私の認識がどのような現実世界として立ち現しているかによってその相貌を変えるのであり、コーヒーカップが他者との共有物として立ち現れるのは、認識がそのようなものとして立ち現しているからに他なりません。

ここで気を付けなければならないのは、このことを「私がそのように認識している」という意味に解してはならないということです。なぜならすでに明らかなように、認識というのは他者との共有物としてのコーヒーカップそのものを内省して初めて見出されるものだからです。そして、独我論と見做される要因である主体としての私も、認識の上位概念に過ぎないのですから、現実世界に登場させる必要はありません。ここに存在するのは、他者との共有物としてのコーヒーカップただそれだけです。

とは言え、結局のところ他者との共有物としてのコーヒーカップを内省すれば、私の認識が見出されるのであるから、やはり独我論的だと思われるかもしれません。ここには、他者の認識、延いては主体としての他者が存在する余地が残されていないからです。しかし、私たちは主体としての他者が存在する、言い換えれば、他者もまた私と同じように私との共有物としてのコーヒーカップそのものであると想定することはできます。この主体としての他者は本来的には措定し得ない概念ですが、無像論で述べた通り、日常において主体としての他者の存在を想定した現実世界が成立していることが見て取れるのであり、その限りにおいて、反証可能性を残しつつ存在するものだと言い得るでしょう。

ただし、それでも複数の主体としての私が共存できるのか、またその関係性はどのようなものなのかといった疑問が残りますが、それについては私たちには知ることが叶わないと言わざるを得ないでしょう。なぜなら、主体としての私はあくまで架空の概念であり、本来的には秘されているものだからです。

では、同じ現実世界でも、目の前のコーヒーカップではなく、直接見ることのできない隣室のコーヒーカップであればどうでしょうか。

私が今しがた隣室に置いてきたコーヒーカップについて考えている時、そのコーヒーカップは他者との共有物として立ち現れていると言えるでしょうか。隣室のコーヒーカップというのは、無像論で明らかなように、認識単独の現実世界です。ここには目の前のコーヒーカップ同様、私の認識が働いています。したがって、私がそのようなものとして認識を働かせていれば、当然他者との共有物として存在させることが可能でしょう。

しかし、目の前のコーヒーカップと隣室のコーヒーカップとでは異なる点があります。

それは目の前のコーヒーカップが色や形を伴って常に明確に存在しているのに対し、隣室のコーヒーカップはよほど記憶力が良くない限り、必ずしも明確に存在しているとは言い切れないということです。それ故、私たちは常にその内省である認識を意識せざるを得ず、そうすると、その矮小化・実体視された認識単独のコーヒーカップは私の頭の中の出来事として把握されることになります。つまり、目の前のコーヒーカップは他者との共有物として実在しているのに対し、隣室のコーヒーカップは私や他者の頭の中にしか存在しない私秘的なものとして位置付けられてしまうのです。

しかし、隣室のコーヒーカップが頭の中の出来事として把握されるのは、認識が矮小化・実体視されているからに過ぎないのであれば、本来的には他者との共有物として現実世界に存在していると考えていいのではないでしょうか。なぜなら、無像論で明らかなように、認識単独の現実世界は実在という意味において、色や形を伴う現実世界と同等の権利を有しているからです。実際、たとえば私と友人の両方が慣れ親しんだコーヒーカップの話であれば、隣室のコーヒーカップであっても、それは二人の共有物として把握されるのであり、少なくとも内省する必要がないほど他者との間で認識が一致しているものに関しては、私たちはそれを現実世界の存在として考えているはずです。

したがって、まず注意しなければならないのは、隣室のコーヒーカップが頭の中の出来事だと思われるのは、私秘的だからではなく、内省によって認識が矮小化・実体視されているからだということです。

では、なぜ認識単独の現実世界が曖昧なのかと言えば、それは認識が自発的だからです。

目の前のコーヒーカップは認識だけでなく、像も内在的原因として働いています。この像は、科学的に見れば感覚器官によって得られる所与的なものであり、この所与性がコーヒーカップに実在性を与えます。そうすると、当然他者に立ち現れるコーヒーカップにも実在性があることが推測されるわけですから、必然的に両者は一致し、何の疑いもなく他者との共有物として把握されます。他方、隣室のコーヒーカップは認識単独のコーヒーカップであり、認識は私の脳を中心として生じるものであることから、純粋に所与的とは言えず、目の前のコーヒーカップに比べれば自発的です。

つまり、私と友人の両方が慣れ親しんだコーヒーカップであれば、隣室のコーヒーカップであっても客観的実在性は保持されますが、二人の記憶が曖昧で両者の間に食い違いが生じた場合には、たちまち客観的実在性が失われるのです。そして、そのことが私たちを内省へと向かわせ、内省はどれも私秘的であるにもかかわらず、認識だけが特別に私秘的であるかのように扱われ、それが実際のコーヒーカップとは別に存在する頭の中のコーヒーカップという解釈に繋がります。

しかし、本来的に言えば、内省する以前の私は隣室のコーヒーカップそのものであり、その最中というのは、内省としての認識は登場し得ないのですから、隣室のコーヒーカップは私秘的ではないのです。もし隣室のコーヒーカップが私秘的なものとしか思えないとすれば、それは私たちが認識を自明のものとしているからに過ぎません。しかし、それはあくまで内省による顕在化であって、私秘的なものではありません。そのような内省による顕在化は、実際のコーヒーカップとの食い違いが生じる懸念や、現実と虚構を区別するための配慮として用いられるに過ぎず、本来、認識単独の現実世界そのものは他者との共有物として立ち現れていると考えなければならないのです。

さらに、現実世界を他者との共有物として把握するのに欠かせないものとして言葉の存在があります。言葉があるからこそ、私たちはたとえ認識単独の現実世界であっても、他者との共有物として把握することができるわけです。

では、言葉と現実世界との関係性はどのようなものでしょうか。

たとえば、私が隣にいる友人から「そこのコーヒーカップを取って」と言われたとします。この時、もし私がまだテーブルの上にコーヒーカップがあることに気づいていなかったとしても、その言葉によって立ち所にコーヒーカップを見つけるでしょう。通常、このような場合、私はまず友人の言葉の意味を頭の中で認識し、それによって実際のコーヒーカップを見つけるという構図で描かれます。しかし、何度も述べている通り、何かを認識するという時の認識とは実在ではなく、現実世界の内在的原因として働いているものです。つまり、私が認識するという働きがそのままコーヒーカップが立ち現れるという現象だということです。

したがって、私は友人の言葉の意味を認識し、それによってコーヒーカップを見つけるのではなく、友人の言葉によって直接的にコーヒーカップを立ち現すと考えなければなりません。言葉の意味というのは、友人の言葉によって直接的に現実世界を立ち現すことができなかった場合などに、内省によって認識を分析するもののことであり、言葉が直接的に現実世界を立ち現す場合には必要のないものなのです。

このことは、目の前に存在しない隣室のコーヒーカップについても同様です。

つまり、たとえば友人から「隣室のコーヒーカップを取ってきて」と言われた場合、私は隣室のコーヒーカップとそれを取りに行く自分の姿を思い浮かべるでしょう。これは、すでに明らかなように、未来としての認識単独の現実世界です。この時、もし私がその友人の言っているコーヒーカップがどのような形態のものであるかを知らなくても、私は何らかの漠然としたコーヒーカップを思い浮かべるでしょう。なぜそのようなことが可能であるかは次節以降で触れますが、いずれにせよ、そうして立ち現れた想像を頼りに、私は隣室にコーヒーカップを取りに行きます。そして、実際のコーヒーカップを発見すれば、認識単独のコーヒーカップが視覚的なコーヒーカップに修正されます。つまり、現実世界の中に視覚を伴うコーヒーカップが立ち現れます。これも通常、私が友人の言葉の意味をまず頭の中で認識し、次いで実際に隣室のコーヒーカップを取りに行く、という構図で考えられています。しかし、この時の「頭の中で認識する」という手順は、認識という内在的原因の顕在化であり、本来的には現実世界に登場し得ないものです。もちろん私たちは内省する生き物であり、私と言葉との関係性に「頭の中で認識する」という表現を用いて構わないのですが、厳密に言えば、私が頭の中で認識すると思われている隣室のコーヒーカップは、頭の中で認識すると考える以前に、すでに友人の言葉によって直接的に立ち現れている実際の隣室のコーヒーカップだということを忘れてはなりません。

つまり、まずもって頭の中で認識するのではなく、友人の言葉によって直接的に立ち現れた認識単独のコーヒーカップを内省すれば、そこに認識が見出されるという意味において、頭の中の出来事だと判断するのでなければならないのです。頭の中で隣室のコーヒーカップを認識することと、実際に隣室にコーヒーカップが存在することとは、同じ一つのものの二通りの解釈であり、それぞれ独立して存在するわけではないのです。

では、これが内語であればどうでしょうか。

友人が声に出して「そこのコーヒーカップを取って」と言えば、私は目の前にコーヒーカップを立ち現すのでした。しかし、同じ「そこのコーヒーカップを取って」という言葉を友人が心の中で思ったとしたら、私は現前する景色の中からコーヒーカップを立ち現すでしょうか。もちろん答えは否です。なぜなら、私はその内語を聞き取ることができないからです。したがって、内語は私秘的だと言われます。

この両者の違いは一体何でしょうか。

声に出された言葉というのは実在です。それは音として現実世界に発せられます。つまり、他者との共有物です。他方、内語は他者と共有することができません。私が発した内語は私にしか存在しません。しかし、これは裏を返せば、私自身にとっては、内語はその他の物と同様、現実世界に存在するものだということです。認識がそうであるように、内語も内省して初めて内語として把握されるのであり、内省する以前には、私の頭の中の出来事ではなく、現実世界の中の出来事なのです。

したがって、実在であるという意味において、声に出すことと心の中で思うこととの間に違いを見出すことはできません。唯一違うのは、音は所与的であるが故に、他者との共有物になり得るということだけです。言い換えれば、内語というのは認識単独の声であり、私は隣室に色のないコーヒーカップを存在させるように、現実世界に音のない声を存在させるのです。もちろんそれは通常、自分自身にコーヒーカップを立ち現させることはできても、他者に立ち現させる力はありません。そのため、内語もまた認識単独の現実世界同様、私秘的だと考えられてしまいます。しかし、それは本来的に私秘的なのではなく、実現しそうにない未来がただの空想として内省されるのと同様、他者に伝わることのない言葉として内省し、それを自明のものとしているからに過ぎません。

通常、このような認識単独の現実世界や内語は、頭や心の中の私秘的な出来事という意味を込めて「思い」と呼ばれます。では、なぜこの思いは私秘的なものと見做されてしまうのでしょうか。

それは、すでに述べた通り、認識が感覚器官によって得られる所与的なものではなく、私の脳を中心として生じる自発的な要素を多分に含んでいるからです。そしてその中でも、内語は色や形と繋がっている認識単独の現実世界とは違い、限りなく自発的であり、当然誰もがいつも私と同じ思いを抱くというわけにはいかず、したがって、他者との共有物にはなり得ません。

とは言え、時に私が何を思っているかを当てられてしまうといったことはよくあることであり、必ずしも私秘的とは言えないのではないでしょうか。あるいは、仮に私に脳波などによって他者の内語を感知できる器官が備わっていたとしたら、私は他者の声を聞くように、その心の声を聞くことができるかもしれません。あるいは、もし私がある特定の人と常に全く同じタイミングで全く同じ思いを抱くという事態が生じたとすれば、感覚器官すらなくても、二人の間で思いは共有物として把握されるのではないでしょうか。そうなれば、思いも白日の下に晒されていると言えるはずです。

つまり、思いは他者と共有していないという意味において私秘的だと見做されてしまうわけですが、それは像などの内省と同じ意味で私秘的なのではなく、他者と共有することができないという性質上の問題に過ぎません。逆に言えば、そもそも目の前のコーヒーカップも、普段他者との共有物として把握されていますが、私がサングラスを掛ければ、他者とは違う私秘的なコーヒーカップが見えるのであり、他者との共有物も単に所与的な感覚に頼っているが故に、図らずも同じものが立ち現れているに過ぎないと言うことができるでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました