第2節 心の状態は内省である

第3章

前節で、思いは私秘的ではなく、目の前のコーヒーカップ同様、実在であるということを考察しました。

そこで次に、では常識的な解釈に反して、本来的な意味での私秘的な心は存在しないのかという考察に移ります。

私は心の中で様々なことを思います。

それは色や形を伴う事物と同様、現実世界の中の出来事です。しかし、色や形を伴う事物とは異なり、思いの多くは他者との共有物として把握されません。私にとっては実在であっても、他者からすれば不可知だからです。とは言え、それは私から見えているコーヒーカップがどのようなものであるかを他者が知ることはできないのと同じ構図です。ただ、視覚は感覚器官によって得られる所与的なものであり、たとえ不可知であれ、同じ場所に立てば誰もが同じものを見ると考えることができます。他方、私の思いは私の身体を中心として生じる自発的なものであり、私がどのような思いを抱いているかを他者が知ることはできません。つまり、当たり前の話ですが、思いは各人各様なのです。もちろん自発的と言っても、私と私を取り巻く環境を明確に区別できるわけではなく、相互に影響を及ぼし合っていることは明らかですが、最終的に私がそれを制御できる可能性があるという意味において、思いは自発的だと言うことができるでしょう。

そしてこのことから、思いにおいては、視覚などにはない新たな内省が生じることになります。

それは、視覚は所与的であるため、たとえばなぜ今私の目の前にコーヒーカップが立ち現れたのかと疑問に思うことがないのに対し、思いにおいては、自発的であるが故に、なぜ今自分はこのような思いを抱いたのかと自問する、という意味における内省です。

ここで、自分の思いは自分で決定しているのであり、何かに促されて生じるわけではない、と反論があるかもしれません。しかし、そう思うのは、色や形と同様、自分がその思いに対して疑問を抱いていない場合ではないでしょうか。そして、それは逆に言えば、疑問を抱かないほど、自分の思いが所与的になってしまっているということです。

それに対して、自分の思いに疑問を抱いたり、自分自身に客観的であろうと欲する場合には、なぜ自分にこのような思いが生じたのだろうかと、私たちはその原因を探ろうとするはずです。そして、そのような自問はもちろん思いだけに留まりません。私の言動もまた自発的なものであり、私たちはこれを自問します。

では、私たちはこれらを自問することによって、どのような原因を見出そうとしてるのか言うと、それは心的状態です。私は常に何かしらの心的状態にあり、それが私に何らかの思いや言動を引き起こす、というわけです。

では、心的状態とは一体どのようなものでしょうか。

たとえば、「やる気がある」という心的状態を考えてみます。このような状態にあるということは、どのような事態を指すでしょうか。

おそらくそれは、たとえば明確な目標を持ち、何事も前向きに捉え、実際に勉強や仕事に打ち込んでいる、といった事態のことでしょう。このような思いや言動に対して、私たちは「やる気がある」と表現します。

通常、この「やる気がある」状態は私の内側に芽生えるものだと考えられています。と言っても、もちろんたとえば胸や、あるいは脳などを開けば、本当にそのようなものが存在すると考えている人はいないと思いますが、少なくとも「やる気がある」状態が何らかの形で発動し、それが私の思いや言動に影響を与えると考えられているでしょう。

あるいは、それはたとえばドーパミンのような脳内物質として存在していると思われるかもしれません。しかし、ドーパミンの存在を知らない子供でも「やる気」を感じることはできるのであり、心的状態は脳の物質的な状態とは別物です。科学的な現象というのは、通常私にはどうすることもできない所与的な出来事であり、実際に勉強をしている最中、私に立ち現れているのは、目の前の先生の顔や机の上の教科書であり、それらに対する私の思いや言動であって、そのどこにもドーパミンは登場しないのです。

したがって、心的状態はそれとは別の、何か感覚的なものとして把握されているはずです。

しかし、感覚的なものであれ、勉強している最中に「やる気」なるものが登場する必要があるでしょうか。たとえ私に「やる気がある」という自覚がなくても、実際に勉強に打ち込んでいれば、それが「やる気がある」状態を何より表しているはずです。むしろ勉強の最中に、「今自分はやる気に満ちている」などと自覚していれば、それは勉強に集中していないということを意味するのではないでしょうか。

では、「やる気がある」と自覚することは一体どのようなことなのかと言えば、それは内省です。

勉強をしている最中の私というのは、厳密に言えば、無自覚な現実世界そのものなのですが、この時の思いや言動を一時中断し、これらが何を意味しているかを分析することによって、私たちは「やる気がある」状態を見出しているのです。つまり、心的状態は一連の思いや言動の内省であり、事後的な解釈なのです。そして、事後的であるにもかかわらず、それは一連の思いや言動の原因として位置付けられるものです。なぜなら私たちは、「やる気がある『から』、勉強に打ち込むことができる」といった解釈を心的状態に与えているからです。

そうであれば心的状態もまた通常の原因ではなく、像と同様、内在的原因であり、なおかつ架空の概念だと見做さなければなりません。つまり、本来的には現実世界に心的状態など存在せず、そこにあるのは、ただ勉強に打ち込んでいるという事態そのものであるが、しかし、これを内省すれば、心的状態が内在的原因として働いていることが見出されるということです。

通常、この心的状態は思いや言動とは別物だと考えられています。私はまずもって何らかの心的状態にあり、次いで一連の思いや言動が生じるという構図です。しかしそうすると、現実世界とは別に心的状態を存在させなければならず、二元論に陥る羽目になります。

したがってそうではなく、両者は同じ一つのものの二通りの解釈だと見做さなければなりません。つまり、思いや言動は、内省すれば私秘的な心的状態でもあるということです。そして、厳密に言えば、それは私に心的状態が宿るということではなく、この心的状態そのものがすなわち主体としての私だということです。

ただし、心的状態は他の内省とは異質なものです。

視覚的世界においては、目の前のリンゴが赤いからと言って、なぜ自分は青色でも黄色でもなく、赤色を立ち現したのかと分析したりはしません。それは視覚的世界が所与的であるために、その原因を追究することが無意味だからです。

それに対して、思いや言動においては、なぜ自分がそのような思いや言動を為したのか、その原因が自分自身に求められるが故に、私たちはこれを追究します。そして、その時に措定されるのが心的状態ですが、他の内省と何が異なるかと言えば、それはもしその心的状態が気に入らなければ、私はこれを制御できる可能性があるということです。したがって、心的状態はただ内省されるだけでなく、私の主体性に関わる問題であり、通常私たちが内省と呼ぶのは、主にこの心的状態に纏わるものです。

さらに言えば、この心的状態なるものは、狭い意味での思いや言動だけでなく、現実世界に存在するあらゆるものに働いていると言えるでしょう。

たとえば、私は目の前のコーヒーカップがたとえ陶器であっても、紙コップであっても、持ち手があってもなくても、見た瞬間にそれをコーヒーカップとして立ち現すわけですが、それは私がコーヒーカップ全般に対する心的状態を有しているからです。そして、もしコーヒーカップかどうか判断に迷うものがあれば、私は内省によって自分のコーヒーカップ観を見出し、改めて自分のコーヒーカップの定義について考えるでしょう。あるいは、私がコーヒーカップに対する知識を増やしていけば、私に立ち現れるコーヒーカップの相貌は以前よりずっと豊かなものになるはずですが、それはそのような心的状態がそのコーヒーカップに内在的原因として働くからです。

とは言え、もちろんこれらを実在として捉えることはできません。なぜなら、心的状態はコーヒーカップそのもののうちにすでに常に働いているのであり、本来的には現実世界に登場し得ないものだからです。しかし、私たちはコーヒーカップという概念を定義したり、修正したりすることができるのであり、それが可能である限りにおいて、心的状態は存在すると言うことができます。

では、この心的状態はどのようにして生じるのでしょうか。

像は外界からの物理的な作用によって引き起こされる所与的なものであり、現前する景色がなぜそのようであるのかを私が知る術はありません。他方、心的状態は私の身体を中心として引き起こされるのですから、これに対して私は制御可能性を持つと言えます。

しかし、心的状態は内省することがなければ、私秘的であるどころか、私自身においてさえ無自覚なものです。目の前にコーヒーカップがある時、そこに私の像が内在的原因として働いていることを自覚する必要がないように、一連の思いや言動の最中に、今自分がどのような心的状態にあるかを自覚する必要はありません。それどころか、像とは違い、心的状態は複雑なものであり、内省したからと言って必ずしも自分の心的状態を的確に見出せるわけではなく、多くの場合、自分の思いや言動は自分自身にとっても不可解なものです。したがって、心的状態は、そのようなものが存在するという自覚はあっても、どのような状態であるかを常に正しく把握できるわけではなく、たとえ心的状態を自覚しているつもりであっても、それが的確なものであるかどうかも定かではありません。

つまり、心的状態は他者のみならず、自分自身にも秘されており、必ずしも自覚できるとは言えないのです。

さらにまた、私は現実世界において、必ずしも自分の思いや言動を内省しなければならないわけではありません。たとえば勉強に身が入らないといった場合に、そのことに疑問を抱かなければ、私は自分が「やる気がない」状態にあるとは内省せず、単に「勉強がつまらない」という思いを抱くこともできます。そうすると、私にはただそのような現実世界が立ち現れ、しかもそれを自らの意志として捉えることになるでしょう。反対に、もし私が自分の思いや言動から「やる気がない」状態を見出したならば、私は勉強がつまらない原因が自分自身にあることを自覚することができます。しかしながら、この心的状態の自覚も事後的な解釈であることを考えれば、私がこれを自由に選択しているとは言えません。

したがって、心的状態は制御可能なものであるとは言え、ほとんど所与的だと言わなければならないのです。

また、心的状態には、他の内省にはない特徴があります。それは、得てして他者のほうが私自身よりも、私の心的状態を的確に分析することがあるということです。心的状態の表れである思いや言動のうち、思いは秘されているかもしれませんが、言動に関しては他者に露呈しており、それによって他者は私の心的状態を推測することが可能です。そして他の内省とは違い、自発的である心的状態にはより客観性が求められることから、客観的な判断が可能な他者のほうが的確な分析ができる場合があります。

とは言え、他者にはその最終的な真偽を確かめることまでは叶わないでしょう。それは、私の像が他者に推測可能であっても、本来的には知り得ないのと同じことです。したがって、私の本当の心的状態は私にしか把握することができません。そして、その意味において心的状態は像と同様、私秘的なのです。

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