第1節 像はフィルターではない

第1章

私の目の前には明らかに実物としての世界が広がっています。三次元空間の中に、色や形を持つ様々な物が存在している世界です。そして、少なくとも身体としての私はこの実物世界の住人として暮らしています。

これを疑うことはできないでしょう。

たとえそれが人間特有の感覚による現象だとしても、その中で暮らしている以上、この世界が私にとっての実物世界だからです。あるいは、この実物世界自体が私の脳の産物に過ぎないということが明らかになったとしても、それが私にとっての実物世界であることに変わりはありません。そしてこの実物世界は私だけでなく、他者とも共有しているものとして存在しています。

その一方で、私はこの実物世界が自分にしか見えていない私秘的な像であるということもまた理解しています。

それはたとえば隣にいる友人には読める遠くの看板の文字が視力の悪い私にはぼやけて見えたり、サングラスを掛けて景色が暗くなったりする場合などに意識されます。あるいは、電車の窓から眺める景色が動いているように見えるのは自分が動いているからだと判断できるのは、それを像として解釈しているからです。

しかし、これは奇妙なことです。現前する景色が他者と共有する実物世界であったり、自分にしか見えていない私秘的な像であったりするからです。

一体どういうことでしょうか。

通常、この私秘的な像という意識はそれほど強くありません。近くのはっきり見えている看板は実物そのものであり、わざわざそれを像と判断する必要がないからです。しかし、看板から遠ざかると文字がぼやける。もしここで、その文字を読む必要がないのであれば、やはりそれは実物そのものかもしれません。しかし、その文字を読みたいのに読めない、隣の友人には読めている。こうなった場合に私はその看板の見え方、つまり像を意識します。

ではそれによって何をしているのかと言えば、実際の看板の文字が本当にぼやけてしまったのではなく、私の像のほうに問題があるのだと判断しているわけです。つまり、現前する景色が本来あるべき姿ではないと判断した場合に、私は像を意識し、実物世界を誤って把握することを回避しているのです。

この時、私たちが思い描いているのは、像というフィルターを通して実物世界を眺めているという構図です。ぼやけた看板の向こうにはぼやけていない実物の看板があるが、私のフィルターに問題があるためにぼやけて見えてしまうというわけです。

しかし、そのように考えることは本当に可能でしょうか。

サングラスのような実在のフィルターであれば、それを外せば色鮮やかな世界が広がっていることが確認できます。しかし、この像というフィルターの場合、これを取り外すことはできるでしょうか。あるいは、ぼやけた看板の向こうに存在する実物の看板なるものを見出すことはできるでしょうか。

どちらも不可能です。

なぜなら実物世界と像は同じ一つのものの二通りの解釈に過ぎないからです。

私たちは現前する景色を時に実物世界と捉え、時に像と捉えるのであって、実物世界とその一部であるサングラスのように両者を同時に見出すことはできないのです。したがって、像というフィルターを通して実物世界を見るという構図は成立せず、それは私たちの誤解であると言わなければなりません。

ただし通常、実物世界と像との区別は曖昧なものであり、私たちはその両方を同時に意識していると言えるでしょう。そして、どちらをより意識するかは状況によって異なります。看板の文字が読みたいのに読めないといった場合には、それが像であることを強く意識しますが、それが自分の探し求めていた店の看板だとわかった瞬間に実物として意識されます。実物世界と像との明確な区別はこの意識を極論的に突き詰めたところに得られるものです。

では、実物世界と像ではどちらが先天的であるかと言えば、それはやはり実物世界でしょう。

なぜなら現前する景色を像と解釈することがなければ日常生活に支障を来たすかもしれませんが、他方、実物世界と捉えることをやめれば、日常生活そのものが破綻してしまうからです。したがって、まずもって実物世界が存在し、像は二次的なものとして把握されなければなりません。

さて、像がフィルターとして捉えることのできないものだとすれば、私たちは像を別の意味に捉え直さなければなりません。

もう一度、看板について考えてみます。

通常、看板は実物として存在しています。しかし、遠ざかって眺めると文字がぼやけ、自分の像を意識します。この時、私は自分の像に問題があるだけで実物の看板の文字はぼやけていないと判断するわけですが、それは私たちの誤解であるとは言え、やはり疑い得ない事実であるように思われます。実際、メガネを掛けたり視力が回復したりすれば、そこにはぼやけていない看板があるからです。しかし、それは像というフィルターが正常に働くことで実物の看板が見えるようになるということを意味するのではなく、看板の見え方、つまり自分の像を意識しなくなり、再びそれを実物の看板として捉え直すということなのです。

ただ、像が正常に働けば実物世界も正常な実物世界として立ち現れるという点に関してはどちらも同じです。そうであれば、像はフィルターではないにしても実物世界の原因として働いていることは確かです。

さらに、実物世界と像がそれぞれ独立して存在するものではないということから、像の変化が直接的に実物世界に影響を及ぼすことがわかります。

たとえば私がサングラスを掛けたとすれば、世界はいつもより暗く見えます。この時、私は世界が暗くなったのではなく、サングラスによって私の見え方、つまり像に変化が起きているだけだと判断します。これはまさにフィルターを通して世界を見ているという構図です。通常であれば、このように考えて何ら問題はありません。実際にサングラスを外せばまた元の明るい世界がそこに待っているからです。

しかし、もしこのサングラスが二度と外すことのできないものだったとしたらどうでしょうか。それでも私はサングラスによって暗く見えているだけで、その向こうにはいつでも明るい世界が存在していると思い続けるでしょうか。

きっとそのような煩わしいことはしないはずです。

もちろん他者との関わりの中で、明るい世界が存在することを思い知らされる場面は多々あるでしょう。しかし、普段の私はやがてその暗い世界のほうを実物世界として受け入れるようになるのではないでしょうか。

つまり、像の一時的な変化は一見フィルターのような実物世界とは無関係な働きとして捉え得るように思われますが、その変化が恒常的なものになれば、実物世界そのものの変化に繋がってしまうということです。そうであれば、像はサングラスのような実物世界に存在する外在的原因ではなく、実物世界そのものの内在的原因だと考えなければなりません。

ちなみに、この例えにおいてサングラスという実際のフィルターを用いていることに疑念が生じないように補足しておきますと、サングラスを掛けることと世界が暗く見えることは全く別の出来事です。

ここで問題にしているのは像の変化の原因ではなく、現前する景色の見え方、つまり像そのものです。仮に私が誰かにサングラスを掛けられたことに気づかないという事態が生じたとしても、私が意識するであろう像のことを指しています。したがって、非現実的ではありますが、サングラスを用いずに像そのものがひとりでに暗いものに変化すると考えても同じことです。

さて、このように像を実物世界の内在的原因と考えれば、実物世界と像がそれぞれ独立して存在するということの矛盾は回避されます。しかし、それはただ矛盾が転嫁されたに過ぎません。なぜなら像を内在的原因だと考えれば、今度は内在的原因を捉えるということの矛盾が生じてしまうからです。

像が内在的原因であるならば、本来それは実物世界が実物世界として捉えられていることのうちに潜在的に働いているのでなければなりません。にもかかわらず、像を内在的原因として見出すという行為は像を顕在化させることに他なりません。かと言って像を顕在化させなければ、その存在は永久に見出すことができないでしょう。したがって、像にとって顕在化は必須条件ですが、しかしながらそれは矛盾だと言わなければならないのです。

では、像の顕在化によって具体的にどのような矛盾が生じるでしょうか。

一つは像解釈によって実物世界が一時的に失われてしまうということです。

遠くの看板の文字がぼやけて見える場合、私は常識的に実物の看板の文字はぼやけていないと判断するわけですが、実物世界そのものを像解釈しているのですから、その最中の実物の看板がどうなっているのか確かめようがないのです。これは像に問題がある場合に限らず、正常に立ち現れている実物世界においても同様です。現前する景色を像と解釈した途端に、その向こうに確認することのできない実物世界を想定しなければならなくなるわけですが、それは私の推測に過ぎないのですから、厳密に言えば、実物世界は一時的に消失していると言わなければならないのです。

そしてもう一つは、像は原因でありながら実物世界という結果からしか見出すことができないということです。私たちにはまずもって実物世界が与えられており、像は実物世界を事後的に内省して初めて得られるものであり、現前する景色をいきなり像として見出すことはできません。しかしながら、像は実物世界において常にすでに内在的原因として働いているのです。

では、実物世界を時に像と解釈することは誤りなのでしょうか。

おそらくそれは誤りではなく、それが私たちが像を知り得る限界なのではないでしょうか。

私たち人間は実物世界の内在的原因である像を発見したとも言えますが、同時にまたそのような架空の概念を発明したとも言えるのかもしれません。私が像を意識しない時には現前する景色は実物世界として振る舞うが、これを内省した途端に私秘的な像として振る舞う。この奇妙な像解釈が有史以来ずっと機能しているという事実が像の実在性を支えていますが、他方、論理的に突き詰めれば像は矛盾に満ちたものだという結論に至ってしまうのです。しかしもし像解釈をやめてしまえば、私は看板の文字がぼやけて見えれば本当に文字が滲んでしまったと判断するしかなくなってしまいます。

したがって、私たちが像解釈することに根拠を見出すことはできませんが、これを放棄するわけにもいきません。そうであればこれを積極的に受け入れ、定義付けする必要があるでしょう。

ここまで、像は実物世界の内在的原因として働いているということを見てきました。

私たちが像を外在的なフィルターだとする誤りは、この内在的原因の顕在化に起因しています。私たちは矛盾を犯しつつ実物世界から像を見出すのですが、それが内在的であることに気付かないことから、世界と像がそれぞれ独立して存在するかのような錯覚を起こすのです。

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