第2節 像を見ることはできない

第1章

前節で、実物世界は内省した途端に私秘的な像として振る舞うが、この像は実物世界の内在的原因であるということを考察しました。

しかし、普段の私たちはそのように捉えていません。像は外在的であり、今まさに自分の目の前にあるものだと考えています。

このことから一つの誤解が生じます。それは「像を見る」というものです。

私は像を見ることができるでしょうか。

まず、実物世界を見る場合を考えてみます。私はどのように物を見ているでしょうか。

多くの人が最初に思い浮かべるのは科学的な説明でしょう。つまり、「物に反射した光が目に入り、それが電気信号として脳に伝わる」というものです。しかし、そのような科学的事実を知らない子供でも「見る」とはどういうことかを理解しているのは明らかです。したがって、私たちはそれ以前にもっと単純な現象として「見る」ということを把握しています。

では、それはどのようなものかと言えば、目と物との位置関係です。

目の前に物がある。ただそれだけの理由で、私たちは物を見ていると表現します。もちろん鏡などがあれば、視線を反射させて考えることは言うまでもありませんが、とにかく実際に物が見えているかどうか以前に、視線の先にある物がその当人に見えていると判断します。だからこそ私たちはたとえぬいぐるみであっても、比喩的にではありますが、物を見ていると表現したりもします。

とは言え、それが当てはまるのは他者においてだけではないかと思われるかもしれません。確かに自分自身においては、それだけでなく、実際に物が見えているという感覚があります。しかし、たとえその感覚が失われてしまったとしても、それは視線の先に物があるという、本来であれば見えなければならない状況にありながら見ることができないということを意味するのであり、まず視線の先に物があるという位置関係が考えられていることに変わりはありません。ただそれでも、その実際に見えているという感覚はいかなるものであるのかという問題は残りますが、それは次節以降で考察します。

さて、では像においてはどうでしょうか。

像は実物世界を内省することによって得られるものでした。この像と私の目との位置関係を云々することはできるでしょうか。それはできないはずです。なぜなら、像解釈の最中には私の目もまた像と化しているからです。

実物世界の中には当然私の目も含まれており、像解釈は実物世界を一時的に消失させるのですから、私の目もまた消失していると言わなければなりません。したがって、像と私の目との位置関係を云々することはできないのです。

像と言うと、つい平面的なテレビの映像のようなものを想像したくなりますが、内省としての像はテレビの映像と私の目のようにそれぞれ独立して存在するものではありません。内省としての像をテレビの映像のように外在的だと考えてしまうのは、内在的であるはずのものを顕在化させているからであって、実物世界そのものの別様の解釈である像は、実物世界の中で実物世界を写し取ったテレビの映像のように実物世界の中に位置づけることはできないのです。

したがって、実物世界を見るように「像を見る」と言うことはできません。しかし、私たちはまた別の意味においても像を見ていると考えているように思われます。

つまり、「主体としての私」が像を把握しているという意味においてです。

とは言え、これはいかにも漠然とした表現です。なぜ私たちはわざわざこのような主語を立てるのでしょうか。それはやはり像を顕在化させているからに他なりません。つまり、実物世界は常に身体としての私に見られているわけですが、これを像解釈した場合でも、それが架空の概念だとは考えていないのですから、何者かによって把握されなければならないように思われてしまうのです。

しかし、そのような何者かは本当に必要でしょうか。本来、像は内在的であり、顕在化させなければ決して知られることのないものです。そのようなものが何者かに把握される必要があるでしょうか。

顕在化によって生じる最大の問題は、像が実体視されるということです。実体視されるということは、像が一つの存在として限定されることを意味します。そして、限定された存在には境界線が生まれ、その外部が出現します。すると、その外部の何者かによって把握されることが要求されます。しかし、像はこの実物世界そのものの内在的原因なのですから、本来無限定なはずです。無限定なものは外部を持たず、したがって何者かに把握される必要はありません。像は矛盾を犯しつつ内省された架空の概念であり、用が済めばすぐさま元の実物世界に還元されてしまう極めて心許ない代物なのですから、わざわざこれを把握するための何者かを想定しなければならない道理はないのです。

とは言え、やはり主体としての私の存在は捨て去り難いものであることもまた事実です。像を把握するための私は必要ないとしても、身体としての私とは別に、世界から独立して存在する何者かとして、主体としての私を措定したくなります。しかし、それはやはり漠然とした何者かとしか言いようがありません。ですが、よく観察してみれば、私たちはそれを世界から独立しつつ、関与している何者かだと考えているのではないでしょうか。

自分がこの世を去った後も世界は存在し続けるだろうと思う反面、それを知るためには私がいなければならないのではないかという疑念も否定できない。私たちはそのように感じているのではないでしょうか。そうだとすれば、主体としての私とは他ならぬ像のことではないでしょうか。なぜなら、像はまさしく実物世界から独立したフィルターとしても、実物世界そのものの内在的原因としても振る舞うものだからです。

つまり、主体としての私が像を把握するのではなく、像そのものが主体としての私だということです。

まず実物世界が存在し、これを内省して像を見出し、さらにそれが主体としての私という抽象的な上位概念としても用いられているのです。像が実体視されていれば、それとは別に主体としての私を措定しなければならないように思われますが、実物世界そのものの内在的原因であればその必要はありません。逆に言えば、像を実体視すれば、主体としての私も実体視され、さらにそれを認識するまた別の何者かを措定しなければならなくなるという無限遡及に陥るのであり、主体としての私もまた内在的原因として捉えるべきものだと言えるのです。

したがって、ぼやけた看板の文字は実物ではなく、私にだけ見えている像だと誰もが考えますが、厳密に言えば、私にだけ見えている像ではなく、その像をもって私と解釈すべきなのです。そして、この主体としての私もまた、本来的には架空の概念であり、実在ではないと言わなければなりません。

もちろんだからと言って、日常生活において「私の像」という表現を用いるべきではないと言いたいわけではなく、そこに何か問題があるわけでもありません。しかし、両者の関係性を理解する上ではこのような厳密さが求められるのです。

さて、これらのことから、「見る」ことにおける「身体としての私」と「主体としての私」は次のように区別することができます。

身体としての私とは実物としての側面です。

私の身体は実物世界の中の一つであり、他の物と何ら変わるところはありません。身体感覚については次章で考察しますが、少なくとも医師が診察するのはそのような私です。そして、私たちはこの身体としての私の目と物との関係性を「見る」と表現しますが、それは視線の先に物があるという単なる位置関係から判断されます。

誰かが私に「あれを見て」と言えば、私は視線を動かし、それを見るわけですが、この時の「見る」には像解釈は登場しません。なぜなら、それは私の黒目が或る位置から別の位置に移動したという実物世界の中だけで完結する位置関係だからです。したがって、「私が物を見る」と言う時の「私」は身体としての私です。

他方、現前する景色を内省によって像解釈したものが主体としての私です。

これは遠くの看板の文字がぼやけて見えた時、実際の文字がぼやけたのではなく、私の見え方に異変が起きていると判断する場合などに登場します。あるいは、「あれを見て」と言われて視線を動かした場合に、実物としてのそれを見るのではなく、その動作によって動く景色そのもののほうを意識したならば、それが主体としての私です。

この時、実物世界は一時消失し、主体としての私を捉えている状態であり、したがってそれは物を見ているとは言えません。

ここから明らかなように、実物世界そのものは身体としての私に見られるのでも、主体としての私に見られるのでもありません。なぜなら、身体としての私における「見る」は個々の物との単なる位置関係であって、実物世界そのものと対峙しているわけではなく、また、主体としての私は実物を見ているのでも、像を見ているのでもなく、実物世界そのものの内省であり、像そのものだからです。

したがって、実物世界そのものは「私」抜きで存在しています。しかも、ここに存在しているのではなく、ただ存在していると言わなければなりません。「ここ」が見出されるのは、身体としての私と個々の物との位置関係においてだけだからです。

この「ただ存在している」という帰結は、取りも直さず私たちの日常の感覚です。身の回りに物が存在するという単純な事実の中で暮らしている。それこそが実物世界そのものです。

そして肝心なのは、そのどこにも主体としての私は登場しないということです。

私たちはどうしても実物世界の傍らにいつも主体としての私が張り付いているかのように捉えてしまいますが、そのようなものを想定する必要はありません。食器棚からお皿が落ちてきた瞬間や、映画に夢中になっている最中、「それを見ている私がいる」と思う暇はないでしょう。このような場合、私たちは「我を忘れて」と表現したりしますが、それこそが本来的な物の在り方であり、私に見られるまでもなく、そこには今まさに落下しているお皿があり、映画の中の世界が存在しています。そして、それらを一時的に中断し、内省した時に初めて主体としての私が見出されるのです。

ただ普段の私たちがそのように考えないのは、いつもこの両方を同時に意識しているからです。

ここまで、実物世界と像は同じ一つのものの二通りの解釈であるということを見てきました。ただし、実物世界を像解釈するためには矛盾を犯さなければならず、像を実在と捉えることはできません。私たちは実物世界を正しく把握するため、便宜的にこの像という概念を用いますが、本来像は潜在的に働いているものとして解釈されなければなりません。

また、像は主体としての私そのものです。

したがって、主体としての私もまた実在とは言えず、本来的には「私」の登場しない実物世界がただ存在していると考えなければなりません。

では、この像が私たちの単なる想像の産物に過ぎないという可能性はあるでしょうか。私たちは像という架空の概念を操り、あたかも自分たちが主体的に生きているかのように錯覚しているが、実際にはただ実物世界が存在しているだけだということは考えられるでしょうか。

しかし、そう考えるのが困難なほど、像解釈がうまく機能していることは明らかです。現前する景色の所在が実物世界のほうにあるか、像のほうにあるかを判断し、整合的な世界を築き上げているのは紛れもない事実です。

したがって、こう考えるべきではないでしょうか。

つまり、像は自然科学同様、反証可能性に晒されつつ措定されるべきものだということです。

もし明日太陽が西から昇れば、天文学が覆されてしまうように、いくら像がもっともらしく振る舞っていても、それで世界をうまく説明できない事態が一度でも起こってしまえば、すぐさまその存在が否定されてしまうような危うい代物なのです。しかし、それは逆に言えば、科学と同程度には発明ではなく発見だと言い得るということでもあります。

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