第3節 認識単独の像

第1章

これまで、実物世界は内省すれば像であるということを見てきました。しかし、もちろんそれだけでは不十分です。なぜなら、実物世界は単なる色の広がりではなく、形や奥行きを持っているからです。さらには、自分では見ることのできない背後の物も自分が見ているかどうかに関係なく常に存在していると誰もが思っているはずです。

では、これらを可能にしているものは何かと言えば、それは認識です。私が認識するからこそ、実物世界は形や奥行きを持ち、私の背後にも存在することができるわけです。

したがって、次に認識について考察する必要があるでしょう。

私の目の前のリンゴがリンゴであるのは、私がそのように認識しているからに他なりません。もし私が望めば、それを机の上に描かれた単なる絵ではないかと考えることも可能です。

実物世界は私が何かとして認識することによって初めて存在します。逆に言えば、私が私に認識されない何かを想像することはできません。私に認識されない何かを想像しようとすれば、私に認識されない何かとして認識されてしまうだけだからです。

そして、そのように全てに私の認識の手が伸びているのであれば、私は自分が実物世界を認識していると自覚する必要はないでしょう。なぜなら、私が自覚しなくても、認識は常にすでに働いているからです。

では、どのような場合に認識を自覚するのかと言えば、それは像と同様、実物世界に何か問題が生じた場合などです。

たとえば反転図形を眺めた場合、最初そこにはただ一つの図形があるわけですが、それが別の図形に見えた途端に、私は認識の働きを自覚するでしょう。それによって、その図形がひとりでに変化したのではなく、私の認識の変化によってそう見えるだけだと判断することができるのです。

さらにこれらのことから、認識が直接的に実物世界に影響を与えていることが見て取れます。なぜなら、もし私が認識を内省することがなければ、認識の変化がそのまま図形の変化に繋がることは明らかだからです。そして、認識が実物世界から切り離すことのできないものであるならば、それは像と同様、実物世界の内在的原因であると言うことができるでしょう。

私は認識という網を広げて実物世界を把握しているのではなく、実物世界そのものを内省して、認識という網が広がっていることを見出すのであり、言い換えれば、実物世界と認識は同じ一つのものの二通りの解釈なのです。

したがって、本来的には実物世界は私に認識されることなく、ただ存在していると言わなければなりません。しかし、私たちはしばしば「リンゴを認識する」という表現を使います。

これは誤りでしょうか。

前節で、「見る」とは個々の物と私の目との位置関係を表現していると述べました。

これと同じことが認識にも当てはまります。

つまり、「認識する」という言葉によって個々の物と私の脳との関係性を表現することは可能です。しかし、実物世界を内省して認識を顕在化させた時、これを実体視して物とは別に存在するものだとしたならば、それは誤りです。目の前のリンゴには、私がそれを認識していると自覚する以前に、常にすでに認識が内在的原因として働いているのであり、さらにそれを認識することは無用な同語反復なのです。

リンゴを食べている日常の場面を思い起こせば、そのどこにも自分がリンゴを認識しているという自覚がないことは明らかです。したがって、目の前にはただ実物のリンゴが存在するのであり、認識はこれを内省して初めて見出される私秘的な内在的原因として把握されなければなりません。

ただし、認識を見出すという行為は内在的原因の顕在化であり、これは矛盾です。私たちはこの矛盾に気づかず、認識を実体視することから、認識を把握する主体としての私を措定したくなります。しかしそうではなく、主体としての私とは実物世界から独立しつつ、関与している何かだと考えられるのですから、この認識こそがすなわち主体としての私なのです。

以上のことから、実物世界を内省すれば、像と認識という二つの内在的原因が見出されることが明らかになりました。

しかし、像と認識は全く同じ性質のものだというわけではありません。

では、どのような違いがあるかと言えば、一つは客観的実在性です。像は基本的に所与的です。私は実物世界に何の変化も加えずに、赤いものを青くしたり、丸いものを四角にしたりすることはできません。つまり、私には像を選ぶ自由はなく、無条件に与えられたものをただ受け入れる他ないのであり、この所与性が実物世界に客観的実在性を与えます。

リンゴが赤いことは私たちにはどうすることもできない所与的な出来事であり、通常私たちが像を主体としての私と見做さないのもそのためです。もちろんもし像に異変が起きれば、実物世界の客観的実在性は失われるのであり、完全に所与的であるわけではないのですが、ただ、その異変の原因が像にあることが判明すれば、それは私個人の問題となり、社会的な実物世界の客観的実在性が維持されることに変わりはありません。

他方、認識には恣意的要素が含まれています。

通常、私は映画の中の世界をあたかも実在であるかのように認識したり、あるいは、斜め上から見たコインを楕円形ではなく、斜め上から見た円だと正しく認識したりすることができます。しかし、逆にこれらをただのスクリーン上の映像や楕円形として認識することも可能なわけであり、認識は内省することによって、ある程度の異なる見方をすることが許されています。つまり、認識はただ与えられるだけではなく、一定の自由を持ち合わせていると言えます。したがって、私たちは像よりも認識のほうに、主体としての私という自覚を持っています。

ただし、それが私そのものだという自覚に至らないという点においてはどちらも同じでしょう。

いずれにせよ、認識には恣意性があり、実物世界の客観的実在性においては、まずもって像が与えられ、認識はこれに準じた働きをするものだと言うことができるでしょう。

そして、像と認識のもう一つの違いは、単独で実物世界を存在させることが可能であるかという点にあります。

像は認識を伴わずに単独で立ち現れるということはありません。認識を伴わない像というのは、単なる色の広がりのようなものですが、単なる色の広がりという解釈も、当然認識の働きによるものであり、いかなる存在も認識なくしては存在できず、世界は認識から逃れることができないのです。したがって、私には像単独で存在する実物世界なるものを想像することはできません。

他方、認識は像を伴わずに単独で実物世界を立ち現すことが可能です。

たとえば冷蔵庫の中のリンゴがそうです。私は実際に冷蔵庫の中を覗かなくても、さっき入れたリンゴが今もまだ冷蔵庫の中にあることを理解しています。これは像を伴わない認識単独のリンゴです。

ただし、ここで注意しなければならないのは、冷蔵庫の中のリンゴは私の認識なのではなく、実物そのものだということです。冷蔵庫の中のリンゴはまず実物として立ち現れるのであり、これを内省して初めて認識が見出されます。冷蔵庫の中のリンゴは像を伴わなくても、色や形を持つ、歴とした実物であり、認識という表現から連想されがちな幾何学的なものではありません。私が物を認識しているという自覚はあくまで事後的な解釈であり、冷蔵庫の中のリンゴも、それが認識であることを自覚する必要はなく、ただ存在しているということを忘れてはなりません。これも普段の生活を顧みれば明らかでしょう。

実物世界の多くは認識単独で成り立っています。もし目に見えるものしか実物と認めないならば、私は冷蔵庫の中のリンゴすら存在させることができなくなるのであり、認識は像を離れて様々な場所に物を存在させることを可能にします。実際、私に見えているものはごく僅かであり、私の背後や壁の向こう、宇宙やミクロの世界まで、ほとんどが認識単独の世界です。また、実際に見えているものでも、その全てが見えているわけではなく、リンゴの裏側は認識によって補足されていると言えるでしょう。あるいは、ぼやけた看板の向こうにぼやけていない看板があると考えることができるのも、この認識のおかげです。

ただし、もちろん認識単独の実物世界を絶対視し、像を疎かにすることもまた現実的ではありません。ずっと冷蔵庫に入っていると思っていたリンゴが、実際に開けてみるとなぜか無かったといったことはよくあることです。認識はある程度の自由を持ち合わせていることから、推測で物を存在させることが可能ですが、その分、思い違いをしていることも多々あります。そのような場合、当然私は客観的実在性を持つ像のほうを正しいと考えるのであり、それによって誤った認識は修正されていきます。

ここで、改めて像について考えてみます。

通常、私は現前する景色を実物世界として捉えています。この時、像と認識は内在的原因として潜在的です。そして、私はこれを時に像と解釈します。つまり、像を顕在化させるわけです。これは言い換えれば、像を存在させるということです。そして、像を存在させるということは、その像を内省すれば、そこに私の認識が働いていることが見出されるということです。

つまり通常、像と認識は実物世界の内在的原因として働いていますが、そのうちの一つである像を顕在化させるということは、認識を実物世界から像へと移行させているということです。言い換えれば、この時認識は像の内在的原因として働いているというわけです。

そして、そのことによって何が起こるのかと言えば、すでに述べたように、像に認識を奪われた実物世界が一時的に消失してしまうという事態が生じるのです。ただし、内在的原因である像は本来認識される必要のないものであり、だからこそ認識された像は架空の概念だと言わなければなりません。また、認識という内在的原因を見出すのも当然認識の働きによるものであり、ここにおいても実物世界が一時的に消失してしまうことは言うまでもありません。

では、像の顕在化が認識の働きなのであれば、私たちは何をするでしょうか。

すでに述べたように、認識は単独で物を立ち現すことができます。したがって、同じように私は内省によって見出される像とは別に、認識単独の像を存在させることができるのです。つまり、冷蔵庫の中にリンゴを存在させることができるように、その隣に像なるものを置くこともできるのです。

もちろん私たちはそのような非現実的なことをしようとは思いません。しかし、この認識単独の像をある特定の場所に存在させることは日常的に繰り返しています。それは他者に見えている景色としてです。決して明確ではありませんが、漠然と当人の顔の辺りに、当然置かれるべきものとして像を存在させるのです。

遠くの看板の文字が読める友人に見えている景色を想像できるのも、この像のおかげです。

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